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『日本野球の父・安部磯雄の偉業―人生の岐路』

早大図書館構内(旧安部球場跡地)に立つ安部磯雄胸像
2019年11月01日(金)
道場主 
[東京都]
新宿区西早稲田
V−U大きな感化力(指導力)の実態


U−1 早大野球部アメリカ遠征団の実態と安部磯雄の指導方針

明治38(1905)年4月4日午後、横浜から米国パシフィックメール社の汽船コレア(Korea)丸に乗船した安部磯雄部長(40歳)、橋戸信主将(遊撃手)ら早大野球部一行13名は二等船客の運賃のまま、(安部が?)船会社と話をつけた上で一等船客として「紳士としてのマナー」を学びながら、ハワイ(一泊)経由でアメリカに向かった。
国家が危急存亡のこの時、このような破天荒な「国際活動」を実現させた原動力は、既述のように日本近代における政治家として最大級のスケールの持ち主である大隈重信の「高い見識」と「大きな度量」、そして遠征チームを率い部長・監督、マネージャー・通訳を一手に引き受けた「社会主義者」にして「篤いプロテスタント」」である初代野球部長・安部磯雄教授の識見と行動力、そしてその極めて高い人格に基づく感化力(指導力)にあった。

満州の野における連戦連敗、挙句に2万を超える捕虜を残して退却した「奉天大会戦」での失敗もロシアは外交的に認めずアメリカによる講和勧告を拒否したのは、この時インド洋にあって日本攻撃に向かっているバルチック艦隊の存在があったからである。この年1月には「血の日曜日事件」も勃発、ロシアの内憂は深刻化し臨界点に達しつつあったが、皇帝自らが日本人を「サル」と呼んでいたように、ロシア人が見下している「絶東(極東)の小国日本」に和を請うようなまねは、彼等のプライドが許さなかった。あのナポレオンを撃退し、後のヒトラー率いるドイツ軍にもロシアは結局鉄槌を喰らわせたが、日本国の45倍(世界一)という「広大な領土」と、「冬将軍」という強烈な味方を得ている「世界最大の武国」ロシアとすれば当然の判断であった。

一方明治38年1月には東京市長・尾崎行雄が先頭に立った東京市その他、全国津々浦々において「旅順陥落祝勝会(祝捷会)」が、3月から4月に亘っては「奉天会戦祝勝会」が賑々しく開催される。
こういう背景において報知新聞は明治38年3月11日、「露国艦隊帰国す」という見出しで、「露国提督ロジェストヴィンスキーの率いる全艦隊はマダガスカル島を出発せり。その目的地はジプチーなると称すれども帰国するものと推定せられ云々」というトップ記事を掲載した。
報知新聞は明治末から大正にかけて東京で最も売れた新聞であり、東京日日、時事、国民、東京朝日と並んで当時の東京五大新聞の一角を占める新聞であった。
飛行機もなく、無線はあっても電話はないというこの時代、虚報、誤報の飛び交う中で、早大野球部が横浜を出港した明治38年4月4日、ロジェストヴィンスキーとその大艦隊は左舷前方に大ニコバル島を、やがて右舷にスマトラ島北端を望むマラッカ海峡に差し掛かっていた。

日露両国の命運を賭けた来るべき海上決戦を目前に横浜を出港した早大野球部米国遠征団(第一回)一行は、明治38年4月20日にサンフランシスコに入港する。
ホテルに着くと安部はスポールディング社サンフランシスコ支店の営業マンと折衝し、200ドル以上の野球用具を購入した。
ところが後日、ウルフという支店長が安部を訪れて次のように言ったという。「本日、本店の主人スポールディング氏から手紙が来ました。今度来訪した早大野球団には、野球用具をいっさい無代償で提供せよ、という通知です。これまで払っていただいた代金はお返します。今後とも遠慮なく野球用具を求めて下さい」 ウルフ支店長はそう言って二百数十ドルを小切手にして安部に返却したという。
当時の為替レートは1ドル2円、日本帝国海軍大尉の年俸が400円の時代であったから、安部の喜びも大きかったのではないか。

そのスポールディング社の社長アルバート・スポールディングは、MLB現アトランタ・ブレーブスの前身ボストン・レッドストッキングスのスター選手(投手)であったが、1876(明治9)年、引退して自身のスポーツ用品会社を設立、翌々明治11年、世界初のベースボールを開発した。その後100年に亘ってスポールディング社製のボールが、MLB(大リーグベースボール)の公認球となった。ベースボール以外にも、1887(明治20)年にはアメリカンフットボール公認球を、1894(明治27)年にはバスケットボール公認球を、翌1895年にはバレーボール公認球を、そして1930(昭和5)年にはゴルフボール公認球を、いずれも世界で初めて開発したのはスポールディング社であった。

さてチームが渡米中、留守部隊の一人であった野球部員、盛岡中学出身の弓館芳夫(小鰐、毎日新聞記者、随筆家)は後年、安部磯雄の奮闘を次のように回想している。
「渡米中における先生の骨折りも並大抵なものではなかった。東京へ修学旅行に来る地方の小学生に付き添っている教師以上の労苦で、なにしろ話せるものはないんだから、試合の日程や入場料の交渉、外人との応対、ホテルでの割り振り、発着駅での世話、それから一行の監督、病者を出さぬよう心遣い、その間に頼まれれば国情紹介、その他講演にも進んで出かける。マネージャー、コーチ、トレーナー、プロフェッサーと総てを一人で兼ねたもので、先生なしでは到底できぬ旅だった」

遠征団一行は、4月21日から5月13日までサンフランシスコから汽車で約1時間ほどのスタンフォード大学の所在地であるパロアルトに滞在し、試合のある度に球場のあるサンフランシスコまで都合4回往復した。
小都市パロアルトに近い小村メイフィールドに一軒家を借り、日本人コックを雇って気楽な生活を始めた一行は、到着の翌日からスタンフォード大学の運動場で毎日2,3時間練習した。自転車1台を1週間1ドル半という値段で賃借りし、野球練習の合間に選手たち(その中の何人かは日本では自転車に乗ったことがない)は自転車の練習もしたという。
宿泊所はスタンフォード大学の垣根の近くにあったが同大学キャンパスは広大で、運動場に行くのに歩いて40分もかかり往復に疲れてしまうので、馬車を雇い3週間の馬車代が70ドル以上になったという。
汽車と馬車とが主たる交通機関であり、自動車も飛行機も無かった時代の出来事であったが、そういう生活の中で、早大野球部は4月29日、第一戦をスタンフォード大学と戦い9対1で敗れ、続いて第二戦を5月2日に行ったが、これも3対1で敗れた。

スタンフォード大学学長デイビット・ジョーダンは立志伝中の人物であり、34歳にしてインディアナ大学学長に就任して全米で最も若い学長として謳われ、6年後の1891(明治24)年、魚類学者としての深い学殖と高い大学経営能力を買われてか、新たに創設されたスタンフォード大学に初代学長として招聘される。アメリカにおける目ぼしい大学の中で、結果としてただ一校、早大野球部の試合申し込みに応じてくれたのは、そのジョーダンが学長を務めるスタンフォード大学であった。

この遠征で早稲田は26戦して7勝19敗、気の利いた高校生チームにも勝てないレベルではあったが、主将で遊撃手の橋戸信(頑鐵)は、その守備がプロ並みだと評価されたし、小柄で少年のような三塁手・陶山素一や、動作の派手な一塁手・泉谷祐勝らも人気があったという。一行の中で只一人の投手・河野安通志は、来る日も来る日も連投し、驚いたアメリカ人から「アイアン・コーノ(鉄人河野)」と呼ばれたという。

そして遠征も終わりに近づいた明治38年5月28日、カリフォルニア州フレスノに向かった早大野球部は駅に着くと構内いっぱいの日本人に歓迎されるという椿事に見舞われた。
現地の新聞が「日本海(対馬沖)海戦大勝」を報じたため、農業労働者として5000人もの日本人が働いているフレスノならではの出来事であった。
駅に集まって早大チームを歓迎した日系移民には、後のメキシコ移民(Braceros)と同じく、社会的地位の低い農業労働者としてのウサを晴らし、人種差別の犠牲者としてのうっぷんを晴らす滅多にない機会が訪れたのである。
日露両国の命運を賭けた来るべき海上決戦を目前に横浜を出港してアメリカ遠征を敢行した早稲田大学野球部は、遠征後半において図らずも東郷平八郎率いる連合艦隊の世界戦史に画然たる大勝の栄誉に浴するという幸運に恵まれたのであった。
「敬虔なプロテスタント」として非戦(反戦)を旨とし、あらゆる戦争に反対して、当然、日露戦争にも反対していた安部磯雄も日本海軍大勝の余慶に預かったのである。
観客は早大チームが出塁すると、「浦塩(ウラジオストック)に進め」、「ハルピンに突貫せよ」などと叫び、いっときウサを晴らし、オレゴン州ポートランドでの試合に審判の不正があった時には、「露探、露探(ロシアのスパイあるいは回し者)」と観客が罵ったという。審判の中には日本人に対する「人種差別意識(日本人蔑視)」の持ち主がいて、アウト、セーフやボール、ストライクの判定に手心を加える者がいたことは間違いあるまい。

「露土戦争」で長年ロシアに苦しめられてきたトルコの人々にとって、「白人(コーカサス人種)国家ロシア」が「日本国(蒙古人種の国)」に敗れたことは驚嘆すべきことであり、最も勇気づけられる歴史的出来事であった。
その一方、「奉天大会戦」に敗れ2万余の捕虜を残して北へ撤退したロシア軍ではあったが、日本陸軍の3倍の戦力を有する新鋭ヨーロッパ軍団が無傷のまま、リネウィッチ総司令官の下に攻撃命令を待っているのに対し、日本陸軍は矢玉が尽きて継戦能力を失っていることなど、アメリカの日系人ばかりでなく内地(本国)の人々も殆ど認識していなかった。

余談ながら敢えて付言すると、こういうアメリカの日系人や、その子孫は、太平洋戦争が勃発すると強制収容所に放り込まれるという悲運(非道)に見舞われたが、漸く1988(昭和63)年に至り、「国家としての謝罪」が日系アメリカ人に対して なされる。
そして2012年死去したダニエル・イノウエ(井上)上院議員(享年88)の遺骸は、合衆国議会議事堂中央大広間に安置されるという成り行きとなった。第二次世界大戦中のヨーロッパ戦線で、あの442部隊の一員としてドイツ軍との戦闘に右腕を失いながらも、なお奮戦したダニエル井上はリンカーン大統領やケネディー大統領そして少数の連邦議員を含めてアメリカ合衆国史上32人目の人物として、その棺を合衆国議会議事堂中央大広間に安置されるという栄誉に浴した。

さて明治38年6月1日、早大野球部一行がサンフランシスコに戻ってくると、「ポテト王」牛島謹璽から当時としては最新鋭の乗り物である自転車を2台寄贈され、野球部員は再び乗り方の練習をしたという。
福岡県久留米市出身の牛島謹璽はカリフォルニアに移民後、ポテト栽培の成功によって「ポテト王(馬鈴薯王)」と称され、この直後、「在米日本人会初代会長」に選ばれる。
その後、在米日本人会初代会長・牛島は、頻発する「カリフォルニアの排日(日系移民排斥)問題」に奔走し、「人種差別」という答えの見えない問題の解決に尽瘁したことで有名である。

今、ヴェトナムの若者が「仕事」を求めて日本を目指すのと同じように、「ポテト王・牛島」らの輝かしい成功例を耳にしてか、狭い日本でひしめき合って暮らすよりは広大な新天地アメリカでの「マシな生活」を夢見る日本人は、後を絶たなかった。
明治24年、日本最初の移民会社としての日本吉佐移民合名会社の設立を皮切りに、その後、明治移民会社、横浜移民会社、海外植民合資会社、神戸渡航合資会社が続々と設立され、以前から営業していた個人周旋業者も入り乱れ、競ってアメリカ、カナダ方面へ渡航者(労働者)を送り出したのである。
日本からアメリカ合衆国本土への移民は明治33年には年間1万人を超える状況となり、増え続ける日本人移民の問題が日米間に緊張をもたらし日露戦争後、日米の大きな外交課題となった。「日露戦争」を「熊と羊の戦い」のように見ていたアメリカ人の日本に対する「同情心」は、満州の野における連戦連勝、対馬沖海戦の大勝を見て、日本に対する「警戒心」に変わっていく。自らにとって敵と見なせば、相手に向けるアメリカ人の視線は険しい。

明治40年から42年にかけて、いわゆる「紳士協定」と呼ばれる外交交渉によって日本政府が移民のアメリカへの渡航を「自主規制」する措置が取られるようになる。それでもなお大正8(1919)年には男子3364人、女子2909人が、翌大正9(1920)年には男子3083人、女子1310人が移民として渡航するという状況であった。(数字は外務省通商局資料による)

アメリカで肉体労働者を大量に必要とする大陸横断鉄道のような大規模プロジェクトは既に終わっていた。景気が下降気味になれば日本人に職場を奪われることを恐れ、その流入を防ごうとする政治的圧力が増し、議会筋も手をこまねいてはいない。既に明治15(1882)年、「中国人(絶対)排斥法(Chinese Exclusion Act)」によって中国人移民の入国は禁止されている中で、日本人移民の大量流入は、東洋人を見下している先住ヨーロッパ系の人々を刺激し、摩擦も増加して新聞も騒ぐ。

折も折、早大野球部がカリフォルニア州滞在中の明治38年(1905)年5月7日、サンフランシスコ市長が急先鋒となり、各種労働組合が参加して「日韓人排斥連盟設立」のための市民大会がサンフランシスコで開催され、黄色人種排斥の演説は万雷の拍手を浴びたという。

そして明治39(1906)年10月11日、サンフランシスコ市教育委員会は日本人学童にチャイナタウンにある東洋人学校に通学するよう命令、白人児童との共学は禁止され、これに対して日本の世論(国民感情)は沸騰した。今、この小論の中で明治40年以降の日米の移民問題に関する緊張を孕んだやり取りについての説明は省略したい。

やがて牛島ら民間有志や日本政府当局者のアメリカ合衆国(合州国)に対する働きかけは、闇夜に鉄砲を撃ち込むような空しく苛立たしい苦闘と化して、結局無駄働きとなり、ついに大正13(1924)年、アメリカ合衆国連邦議会において「1924年移民法(Immigration Act of 1924)」が成立する。これによって日本からアメリカ本土への移民の流れは止まることになったのである。

明治40年、東京商業会議所初代会頭・渋沢栄一(67歳)は小村寿太郎外相の依頼を受け、「日米友好親善」のために日米双方から有力、著名な財界人や学者、ジャーナリストらを網羅する協議団体の結成に乗り出す。長年に亘り「日米有志協議会」座長として、文字通り老躯を駆って太平洋を股にかけ奔走した「優気堂々」の渋沢栄一も、この法案の連邦議会通過を聞いて「長い間骨身を惜しまず働いてきた甲斐もなく神も仏もないように思われる」とまで嘆き悲しんだという。

話を早大野球部に戻すと、こういう時代のアメリカ合衆国に飛び込んだ早大野球部米国遠征団を率いる 安部部長は、 この頃(明治38年6月)、できれば東部へも転戦したいと思いエール、ハーバード、コロンビア、プリンストン、コーネルの名門諸大学に電報で照会したが、コーネル以外どこからの返事もなく、やむなく諦めて太平洋岸を北へオレゴン州に向かった。そこには林業労働者(木こり)として働く日系人が大勢いた。
ともすれば我々は忘れがちであるが、カリフォルニアは広大である。カリフォルニア州の面積は日本国の面積に匹敵し、自動車や飛行機は未だ出現せず、移動手段は汽車と馬車のみという時代に、そこから更に北へオレゴン州、ワシントン州へと連続する試合に遠征団一行の疲労も激しかったのではないか。
遠征の最終場面6月6日、オレゴン大学と戦い零対3で負けた時、明らかな審判の不公正に対して、早稲田の選手が反感、不平を顔や動作に表すのを見た安部は、さすがと言うべきか、ここにおいても選手を深くたしなめたという。

早大野球部長としての安部は、日頃から野球部員に精神修養の大切さを話していたが、その要点は次の二つであった。
 
一、形勢は不利でも決してヤケにならぬこと。
一、勝敗に余り重きを置かないこと(悔し涙を流さない、塞ぎ込まない)

以上の二点を踏まえ渡米するに当たっては改めて選手の心得として、試合中に怒ったり不平な顔をしたりすまい。終始にこにことして微笑を湛える度量を持っていたい、と訓示した。

安部磯雄の心底にあったのは、日本の有為な青年たちに国際的な目を開かせると同時に、欧米の人たちに日本人が野蛮な国民ではなく、同じく文明国の仲間であることを知らしめ、両者の間に友情を築きたいという思いである。増え続ける日本人移民をめぐって「排日(反日)運動」が盛り上がっているカリフォルニアで、アメリカ人が「国技」と自負するベースボールの試合を行うことは正に「草の根の日米親善活動」であった、と言えよう。

大敗しても、負けが続いても、意気阻喪したところを見せない早大野球部第一回米国遠征団の姿勢をアメリカ現地の新聞は、「常に満面微笑を湛えて競技している」と称賛した。
一人のアメリカ人が安部のもとへやってきて、「諸君が、最後に至るまで少しも失望の色を表さずに戦うのは、感服の至りです」と語り、それを聞いて安部は大いに満足したという。

さらに北へ向かった早大野球部は明治38年6月12日、ワシントン州タコマで最後の26戦目の試合に勝ち7勝目を挙げ、そこからシアトルに帰って日本船・神奈川丸に乗り込んだ一行は6月29日午後4時半、横浜に到着する。無線電信が普及したばかりで神奈川丸にはその設備がなく、出迎えたのは前述の野球部留守部隊の一人・弓館芳夫(小鰐)と早大柔道部出身の講道館の専門家・佐竹信四郎四段の二人であった。


U−2 早大野球部アメリカ遠征団帰国後の貢献

明治38年8月の雑誌『中学世界』(第8巻第10号)は、安部磯雄の「早稲田大学の野球選手」と橋戸信(頑鐵)の「米国の学生と運動競技」の二編を「アメリカ遠征みやげ記事」として掲載し、全国青年読者の熱狂的歓迎を受けたという。
当時、旧制水戸中学の学生であり熱心な野球部員であった飛田忠順(穂州)も、それらの記事に魅了され早大での野球を志した一人ではなかったか。
既述のように橋戸信は早大入学前は青山学院中等学校野球部のエースとして、当時最強と言われた一高野球部を二度破った極めて高い能力の持ち主であった。
一流のジャーナリストとなる資質を期待されたのか、アメリカ遠征から帰って程なく安部部長の勧めに従って早大文学部学生・橋戸信(26歳)は、『最近野球術』(博文館刊、明治38年)を出版する。

『最近野球術』は、日本野球の進歩に大きく貢献した一冊であるとされているが、その『最近野球術』に対して序文を寄せたのが、早稲田大学講師という肩書の児童文学者・巖谷小波(35歳)と、早大在学中に「冒険小説家」として作家デビューを果たし、まもなく日本初のスポーツ愛好社交団体「天狗倶楽部」を創設して、その会長となる押川春浪(29歳)の二人であった。

そこで押川は、橋戸を次のように讃えている。「…本著の著者橋戸信君は、一種の風骨を備えたる壮漢也。豪傑にして才人、鐵血にして風流也。自ら号して「頑鐵」というは、単に外貌を示せしものならん。彼、鐵の如き体格を有すと雖も頑物に非ず。筋骨逞しくして膂力衆に秀で、風采は燕人張飛に似て更に愛嬌を加う。柔道、馬術、テニス、ボートレース、ベースボール等、種々の運動競技に牛耳を取ると同時に、諸学に達し、文を能くし、絵葉書を好み、囲碁は初段に三目を打つ、而して其最も熟達し、最も愛好する処はベースボールならん。幼より球を握っ十有余年、雨の降らざる限りは、殆ど一日としてバットを揮らざる無く、中学時代より斯界の一怪物と呼ばれ、一大驍将と目せられる。彼が今日鐵の如き強健なる体格と、利刀の如き明快なる頭脳とを有するは、蓋しベースボールの賜多からん。…」

明治40年、東京専門学校改め早稲田大学文学部を卒業した橋戸は改めて渡米し、4年間アメリカで暮らして帰国後、萬朝報を経て大阪朝日新聞社に入社、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の運営に関わった。
その後大正9(1920)年、橋戸は早大アメリカ遠征チームの仲間である押川清(二塁手)、河野安通志(投手)らと日本初のプロ野球チーム「日本運動協会(資本金9万円)」を設立し無限責任社員3名の一人に名を連ねる。
東京芝浦にグランドを含む本拠地(フランチャイズ)を設けて順調にスタートした日本初の職業野球(プロ野球)は、3年後の大正12年、関東大震災による大損害と震災後の混乱の中で消滅せざるを得なかった。
改めて大正14(1925)年、東京日日新聞(現・毎日新聞)に入社した橋戸は、日本の都市を代表するチームを競わせる大会の実施を発案し、昭和2(1927)年には「都市対抗野球」の開催にこぎつけた。今も周知のように恒例として、都市対抗野球のMVP(最優秀選手)に対しては「橋戸賞」が授与されている。

現在、東京ドーム21番ゲートから入場できる野球体育博物館内の「野球殿堂」に、特別表彰により第一回(昭和34年)の殿堂入りを果たした人々は、正力松太郎、青井鉞男、安部磯雄、久慈次郎、小野三千麿、ヴィクトル・スタルフィン、桜井彌一郎、市岡忠男、平岡熈、押川清、橋戸信、沢村栄治の12名であり、翌昭和35年の第二回特別表彰によって殿堂入りしたのは、河野安通志と飛田忠順である。


U−3 早大野球部長としての安部の日常と基本方針

さて、明治34(1901)年の野球部創立以来、大正15(1926)年、61歳にして政界進出を目指し野球部長を辞任するまで25年間、安部は殆ど毎日のように戸塚球場に出て選手の練習を見守っただけでなく、夏季練習(夏季合宿)や冬季練習(冬季合宿)にも1,2回を除いて全て参加した。
創立時代における宇都宮および浜松における夏季練習、鎌倉及び伊東における冬季練習はもちろん、その後の紀州田辺と大阪豊中における冬季練習、さらに4,5年継続した奈良の冬季練習、大正7年以後毎年行われた軽井沢の夏季練習にも必ず参加した。
合宿では部員と起居を共にして連日、練習と試合を見続け、球ひろい、水汲み、ライン引き、草むしりなど何でも手伝ったという。
早稲田に戻れば授業が終わるや否や、本の風呂敷包みを小脇に戸塚球場ベンチに現れ、別に批評や激励をすることもなく練習の終わるまで飽かずにジーッと眺め続けた。雨の日でも傘を差して一度は球場をみないと気がすまなかった。

そういう安部磯雄が部長として早大野球部員にまず要求したのは、禁酒禁煙と不正な男女関係の厳禁ということであった。
前述したように大正9(1920)年の橋戸や押川、河野が設立した合資会社日本運動協会の発足を以て日本プロ野球の始まりとされている。しかしながら、現・読売ジャイアンツの前身・大日本東京野球倶楽部の創立は、ずっと後の昭和9(1934)年に至ってのことで、現・阪神タイガースの前身・大阪野球倶楽部の創立は翌昭和10年のことであった。
そのような時代背景において、明治から大正、昭和の10年頃まで、「スター」と言えば「大学野球選手」であり、とりわけ早慶野球部の選手は日本女性憧れの的であったことを考えれば、「不正な男女関係の厳禁」という安部磯雄の大方針は当然の事と言えよう。

喫煙に関して安部は飲酒ほど厳格ではなく、飲酒も二回までは大目に見て、三度目は除名(退部処分)ということになったが、安部の野球部長生活25年の中で、飲酒のため除名された者は意外なことに1名に過ぎない。一方、安部は不品行に関しては極めて厳格で、一度不品行の事実があれば、何らの仮借なく一刀両断に処分することを常に部員たちに警告していたが、実際にこの理由で除名(退部)された者は3名である。

そして安部が部員指導において最も注力したのは「スポーツマンシップの涵養」ということであった。
経済成長の結果、英米に比べては(50年から100年)遅ればせながら、多くのプロスポーツが存続する社会的基盤が整った21世紀日本において、スポーツ指導者の学ぶべきは、安部磯雄のこの指導方針と、その精神ではないか。

安部は「スポーツマンシップとは、日本における武士道のことなり。武士道の要諦は人の弱みに付け込まないことである」と喝破した上で、そのスポーツマンシップの中核をなす「フェアプレイの精神」を鼓吹して止むことがなかった。
そういう安部が、「スポーツマンシップを傷つけた」という理由で、野球部員(選手)を懲罰に付すことが何回かあった。
代表的な一例として、明治39年以来中止されている早慶戦復活の機運を盛り上げるための、OBに現役を交えての三田稲門戦(慶早戦)において大正11(1922)年、安部の逆鱗に触れる事態が発生して、それについての処分が行われた。

前年から芝浦球場(前述の「日本運動倶楽部」の本拠地)で始まった早慶対抗戦(非公式試合)は球界の人気を集めていたというが、その試合で早大投手谷口のワインドアップ・モーション(逆ワインドアップ)が問題となり、双方が感情的になっていたところ、バッターボックスに入った慶大打者高濱が舌を出して挑発した(からかった)のに対して、投手谷口がデッドボールを喰らわせ、怒った打者高濱がバットを投げつけるという事件が起こった。
安部磯雄は直ちに投手谷口の除名を決意し裁断が下されようとしたが、主将を始め、先輩、選手たちの懸命の嘆願によって結局、谷口は1か月間の出場停止で許されることになったという。
「スポーツ精神確立のためには、チームが弱体化することもやむを得ない」というのが安部磯雄の基本態度であり、「勝ってなんぼだ」というような基本態度の人々とは、次元の違う安部の姿勢であった。

さてここで留意すべきは、明治34年秋のチーム結成後わずか3年で、早稲田が先進の一高、慶應、学習院を凌駕するレベルに到達したのには、それなりの理由があったことである。
明治35年末から翌年1月にかけて、安部部長に率いられた早大チームの一部は、鎌倉師範の校庭で二度目となる冬季練習(合宿)を行い、明治36年夏には、静岡県浜松中学(旧制)校庭を借りて本格的夏季合宿を行い、浜松中学とは連日のように練習試合を行った。
この年後半、横浜外人倶楽部を破り、11月20日、最初の早慶戦が三田の慶應グランドで一高選手の審判の下で戦われ、11対9で早稲田は惜敗した。

そして翌明治37年春、早稲田大学野球部は、ある人の紹介で元シカゴ大学の名投手(主将)であり、キリスト教伝道のために東京学院(現・関東学院大学の前身の一つで東京・牛込にあった)の教師(宣教師)をしているフレッド・メリーフィールドのコーチを受けることになった。
このメリーフィールドこそ前回に言及した大正9(1920)年、来日して雑誌『野球界』(第拾巻第九号)に「遊戯の道徳心」と題する談話を寄せたシカゴ大学教授(新約聖書史担任)兼同大学野球部長メリーフィールドその人である。
この辺りに、「敬虔なプロテスタント」としての広い人脈と、「多彩な行動力の持ち主」でもある安部磯雄の真骨頂が窺えるのではないか。

容姿端麗、人格温厚なメリーフィールドはコーチとして一たびグランドに立つと、傍で見ている安部がハラハラするほどに厳しく猛烈に選手を鍛えたようである。俗に、「田舎の三年、都の昼寝」という言葉があるが、捕球動作その他、本場の一流選手であったメリーフィールドの指導によって、早大野球部は多大なものを得たのではないか。
前述した雑誌『野球界』第拾巻第九号に掲載された談話の中で、メリーフィールドは次のように述べている。
「…技術を修養するに当たっては、徹頭徹尾正式にやらねばならぬ。練習の如きも総て正式に規則正しく之を行わねばならぬ。不規則なる練習は、大した効果が無いのである。選手は、節制に注意せねばならない。酒類を飲むこと、煙草を吸うことなどは、断じて不可である。総て一日の生活を規則的になさねばならぬ。不節制家は、スポーツマンとして資格なき者である。…」

余談ながら周知のように、あのベーブ・ルース(George Herman”Babe” Ruth,Jr.)は港町ボルチモアでバーを営む両親の下で幼時を過ごし、親の手に負えない悪ガキとなって7歳から12年間セント・メアリー教護院(全寮制の矯正学校兼孤児院)で過ごした。そこで親が一度も面会に来ない悪童ジョージに野球を教えたのは、身長198センチ(6フィート)、体重113キロ(250ポンド)、容姿端麗にしてジョージがたまげる「怪力の持ち主」マシアス・バウトラー神父(カソリック)であった。宗教界の人々(キリスト教神父)がアメリカ社会で果たしている役割の一部が窺える出来事である。


U−4 早大野球部米国遠征団(第一回)のアメリカ土産

さて「草の根の日米親善」という功績に加えて、「日本スポーツ界初の海外遠征」という破天荒な企てによって早大野球部米国遠征団(第一回)がアメリカから持ち帰ったものは、幼稚、未熟な日本ベースボール界に正に革命的進化をもたらすことになった。主なものを挙げると、

1、グラブとスパイクシューズ
  従来は内野手、外野手が全てミットを使っていたが以後、捕手と一塁手以外はグラブを用いる  
  ようになった。同時に、脚絆足袋をやめて、スパイクシューズを使うようになった。
2、練習法の改善
  従来の練習法なるものは殆ど一定の型を成さなかった。早大帰朝後は全く面目一新して、打
  撃練習、投球練習等の秩序ある練習法に変わった。
3、ウォーミングアップ
  渡米前は、キャッチボールや投球練習の最初から力の限り投げ合い、ウォーミングアップと言う 
  こと(言葉?)を知らなかった。
4、二塁手と遊撃手の連絡
  走者の牽制法
  以前は二塁に走者がある場合、二塁手が塁上にあって走者を引きつけていたが、この遠征以
  後は二塁手も普通の位置にいて、遊撃手と呼応して走者を牽制する方法を伝えた。
  二塁の刺殺
  この遠征以前、一塁から二塁への走者を刺す場合、捕手からの球は全て二塁手が扱っていた
  のを遊撃手も同じように参加するようになった。

その他、スクイズプレー、ワインドアップモーション、スライデイング(滑り込み)、投手によるチャンジオブペース(緩急をつけた投球)等々、要するにアメリカの「ベースボール」を基として明治5年以来、盛んになってきた日本の「野球」なるものは、「一高全盛時代」とか呼ばれる時代を過ごしながらも、アメリカのベースボールに比べては、極めて幼稚、未熟な段階にあった。
アメリカでは早くも東大発足の前年明治9年には現在の「ナショナル・リーグ」が結成され、MLB(大リーグ・ベースボール)は「プロスポーツ」として140年に近い歴史の出発点に立っていた。
一方の日本では、明治18年出版された『西洋戸外遊戯法』の中で、「ベースボール」は、「打球おにごっこ」と翻訳されている。


U−5 橋戸信(頑鐵)の見識、そして進取の精神

アメリカに比べては極めて幼稚、未熟な段階にあった当時日本野球界の旧態依然たる実態を橋戸信(頑鐵)は、その著『最近野球術』の「緒言」において、次のように簡明直截に指摘、そして慨嘆した。

「現今の野球家を通じて、陥り易き弊害は、単に球を受け取る事、又は唯、猛烈に之を打つ事、塁を走る事などに関し、頗る熱心に練習を行うと雖も、其手足を統一せしむるべき、頭脳上の研究に於ては、排して問わざるかの感あり、之れ米国の野球熱が、着々として科学的方面を発展し、其技量蓋し複雑を極め、趣味律々として真に文明的のゲームたるを標榜し来れるに反し、我野球界が、依然として、旧套を墨守し、何等の発展、何等の科学的分子を有する事能はざりしにあらずや。野球界に於て、知名の士たらんとする希望は、各学校における忠告、又は信頼すべき、書物に接せざるが為め、あたら第一流に、発達すべき才能を持ちながら、可もなく。不可もなくして、終わる人多し、斯道の為め、痛恨せざるべからず、」

橋戸の著作に押川春浪が寄せた前記序文の中で、押川は橋戸を「豪傑にして才人、鐵血にして風流也。…利刀の如き明快なる頭脳を有する」と称賛したが 、早大野球チーム主将としてアメリカ滞在僅か2か月、帰国直後の早大在学中に、このように透徹した見識を披瀝した橋戸頑鐵(26歳)は、早くも卓越したジャーナリストとしての資質を遺憾なく発揮したと言えよう。

この「緒言」で橋戸は、日本野球界が「旧套を墨守して」、アメリカベースボール界におけるような 科学的アプローチが見られないことを指摘し、同時に『最近野球術』の巻末には「米国の野球界」と題する論文をも掲載し、その中で日本野球界が「非科学的な練習」、「向こう見ずの練習」を繰り返している愚を嘆いている。

アメリカ合衆国では既に明治9年に発足したプロ野球(商売人野球)が目覚ましく発展していること、そこにおける打力・投手力の極めて高い技術レベル、とりわけ「それ球(変化球)」の威力と、それを打ちこなす高いレベルの打力を橋戸は見逃していない。
「一種の風骨をそなえた壮漢」橋戸は、アメリカ合衆国大学野球界における有給コーチャー制度等にも目配りを怠らず、ラグビーやサッカー或いはバスケットボールのように直接的身体接触(ボディーコンタクト)がなく、グラブやバットを介しての戦いであるとはいえ、体格、体力(パワー、スピード)において圧倒的に勝るアメリカ人と、 日本人が野球でわたり合う厳しさを十分に認識し、それを直視して目を逸らさない冷徹な人物であった。

同時に既述のように橋戸は、そういう困難(ハンデ)にも敢えて立ち向かっていく逞しく前向きな(積極的な)姿勢(進取の精神)の持ち主として、大正9(1920)年には日本初のプロ野球(商売人野球)チーム「日本運動協会」を立ち上げたばかりでなく、その後、高校野球、社会人野球の為の全日本的組織造りに絶大の貢献をしたのであった。
蛇足ながら辞書を引くと、「旧套」とは「昔からの形式」あるいは「ありきたりのやり方」となっている。

そこで今、筆者は明治38年の時点において橋戸頑鐵が「慨嘆」した事態の根底にあった事象(外的、内的条件)に注目し、日米両国野球界(スポーツ界)の実態から両国の精神風土(国民精神)の違いにまで視野を広げて、「旧套を墨守し、合理的思考に基づき科学的アプローチをどこまでも探究することが出来ない日本社会」の「根っこ」にあるものに思いを巡らせてみたい。

スポーツ界の話ではないが昨今、アメリカ合衆国で優れた修士論文を仕上げると、文系、理系に関わりなく論文の執筆者に対してアメリカ全土の大学から、その大学の「博士課程」就学への「勧誘」が来る。
「勧誘」を受けた人は、先方の提示する条件(支給される奨学金の額その他諸々の特典)を検討して、官立、私立に関わりなく入学先を決めている。
州立大学で修士論文を仕上げた筆者の知人(20代)には7つの有名大学から「博士課程への勧誘」があり、彼は支給される奨学金(週給90ドル前後)の多寡だけではなく、余暇に付随施設で行われている「柔道修行(柔道部活動)」のレベルをも勘案して、入学先を選択したと聞いている。
翻って今、日本で毎年、上述したアメリカ合衆国におけるようなシステム(オープンな勧誘)で、博士課程を選択できる学生が、文系理系を問わず、どれほどいるであろうか。

こういう事例を見るにつけ、エジソン(電機)やフォード(自動車)の大成功、作今のGAFAと呼ばれるグーグルやアマゾン、Facebookそしてマイクロソフトのように「世界的支配力を有する巨大企業」が、若い起業家によって比較的短時間に続々と誕生する「アメリカ合衆国特有の精神風土」を顧慮すると、「日米の力の差」は、両国民のメンタリティー(「精神のもち方」あるいは「心的傾向」)の差に由来するところ大ではないか、という思いに突き当たるのは筆者だけであろうか。

結論すると、「あたら第一流に発達すべき才能を持ちながら、可もなく。不可もなくして終われる人多し」と橋戸頑鐵が嘆いた明治38(1905)年も、2019年の今も、事態の本質は殆んど変わっていない。
日本野球界(スポーツ界)ばかりでなく日本社会全体において、「合理的思考に基づき、科学的アプローチをどこまでも探究することが出来ず」、社会の発展が遅れて「労働生産性」は、いつまでたっても相変わらず低い(先進国中最低レベル)という事態の根底にあるのは、封建時代(幕藩体制)の遺風を引き摺ったまま、日本社会に今日も瀰漫している「権威主義」と「事大主義」という二つの大きなマイナス要因ではないか。

辞書を引くと、「権威主義」とは「権威をたてにとって、思考・行動したり権威に対して盲目的に服従したりする態度」とあり、「事大主義」とは「自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方」となっている。

21世紀の今も、テニスの錦織選手(中学時代に渡米)、陸上競技短距離のサニブラウン選手の例を挙げるまでもなく、テニスその他多くのスポーツにおいて斯界のトップに登り詰める道は、「合理的思考に基づく科学的アプローチをどこまでも(徹底的に)探究し、能力の高い人々が厳しく、とことん競い合う」自由の国アメリカ合衆国への留学、ということに変わりはないようである。
「権威主義」や「事大主義」が瀰漫する社会と、根底に「進取の精神(開拓者精神)」があって、失敗を恐れず続々とベンチャーが誕生し、その一方て、敗者として消えた者が何度も挑戦できるダイナミックな社会(別の見方をすれば残酷、熾烈な競争社会?)との差を、我々は今、直視すべきである。

ビジネスに限ったことではなく「インデイ500」のような壮大な「モータースポーツ」、160年余の歴史を持ち世界最古のスポーツトロフィーとして知られる「アメリカズカップ」が代表する「海洋スポーツ」、更には毎年開催される自家製飛行機大会が象徴する「航空スポーツ」を頂点として、サーフボード、マウンテンバイク、スケートボード或いはスノーボード等々、どちらかと言えば卑近な道具(遊具)を用いて、短期間で見るに値する高度な技術を特徴とする「スポーツ」に仕立て上げてしまう、アメリカ合衆国(合州国)独特の精神風土こそ、同国発展(隆盛)の基(もと)である、と言えよう。

21世紀の今日までに蓄積された「オリンピック・メダル数」や、「ノーベル賞受賞者数(日本25名、アメリカ373名)」に象徴される「日米の力(経済力・軍事力・文化力等々)の差」は、気の遠くなるような「大差」であり、ボクシングで言えばバンタム級あるいはフェザー級対ヘビー級の力の差である。
その大差は、両国の領土の大小、天然資源や人口の多寡その他、外的条件とは全く異なる両国民のメンタリティー(「精神の持ち方」あるいは「心的傾向」)にも大きく起因しているのではないか。


U―6 日本野球の父・安部磯雄

橋戸によるこのような鋭い知見を交えた著作あるいは安部の論文に加えて、米国遠征団帰国後の早大野球部員たちは最新野球技術を新聞や雑誌に発表し、請われるままに他校のコーチもした。
ともすれば、新しい技術や戦術は自分一人の腹の中に隠しておいて、他人に知られぬようにと考えるのが人情である。
ところが、「スポーツマンシップとは武士道のことなり」、「武士道の要諦は人の弱みに付け込まないことである」と喝破して、「フェアプレーの精神」を鼓吹して止まない安部磯雄と、その指導を受ける早大野球部員は、そういう卑しい精神とは無縁であった。
アメリカ仕込みの技術や戦術を惜しみなく他校(世間)に伝えるという「剛毅闊達な精神」は、その後も安部磯雄を突き動かし、日本野球を育て上げる原動力となったのである。

周知のように、野球の早慶戦は、明治39年秋、第一戦、第二戦の試合後(球場外)の応援団の行動が過熱して治安当局の危惧をも招き、第三戦は中止となり、その後大正14年まで19年間も中断されたまま、東京六大学リーグ結成の中で、早法、早明、早立等の試合は行われたが、早慶戦が行われることはなかった。
その早慶戦中止期間中の大正9(1920)年、早大野球部は奈良(春日野)における冬季合宿中に、アメリカ人ハーバート・ハンターのコーチを受け、人格高潔なハンターの指導によって得たものには多大なものがあったという。
すると安部磯雄は、三田の慶應義塾に野球部の幹部を訪ね、ハンターのコーチはとても勉強になり、ためになるから、ぜひ慶應もそのコーチを受けるようにと奨めたという。

安部磯雄が「日本野球の父」と呼ばれるのは、一大学(早稲田大学)、一運動部(早大野球部)の強盛を希求する活動に終始することなく、敢えて言えば、「野球そのものに対する深い愛情」に基づく、このように次元の高い行動が共感を呼び、広く認識された結果であろう。


U−7 「蛮カラ」、「東洋豪傑流気取り」の排除

「スポーツ精神確立のためにはチームの弱体化もやむを得ない」という指導方針を25年間に亘って貫いた早大初代野球部長・安部磯雄の心底には、「スポーツマンは勝敗などを眼中に置く必要はないこと、全力を尽くして遂に敗れるということは、結局自分の実力が足りないのであって何等恨むべき所はない」という信念が確立していた。

そのように「スポーツマンシップ」そして「フェアープレーの精神」を強調して止まない安部磯雄は、具体的には選手たちに対して、常に雨上がりの晴れた空、雨上がりのさわやかな風のように、「清らかでわだかまりのない心」をもって試合(競技)に臨むよう教え諭している。

次回に言及するように、そういう安部部長の下に「一球入魂」という言葉を作った飛田穂州が専任コーチとして登場し、それまで日本にはなかった「野球部監督」という言葉と役割とが日本社会に定着する大きな礎となった。
こういう指導者のもとに学生生活を送った早大野球部学生は幸せであったと言うべきであろう。

ところで明治37年に至って、体育部長(野球部長兼任)・安部磯雄は、「体育部規則」として「各部の選手にして続けて2回落第するときは、その資格を失う」という条項を新たに付け加えた。
『早稲田大学百年史』には、安部がエチケットを心得ている野球部、庭球部には好意的である反面、柔道部、剣道部、特に人数も多く蛮風横溢してガラの悪い漕艇部には厳しく接し、体育部予算の各部への配分を巡って、漕艇部対安部体育部長の関係には険悪な局面もあったと記載されている。
多くの人々にその「極めて高い人格」を以て知られた安部は、『野球大観』(旺文社編 1949年刊)に序文を寄せ、「私はまた、スポーツマンが、ともすれば、東洋豪傑流を気取りたがるのを極度に排して、ひたすら紳士道の上に立つべきを強調した」と述べている。
次回で詳述するが、フランス貴族クーベルタン男爵の魂を奪い、その一生を決める羅針盤となったイギリス教育改革の先覚者ラグビー校々長トマス・アーノルド(Thomas Arnold)が聞けば、「我が意を得たり」と手を打って喜ぶような、安部磯雄の高邁な見識ではないか。
明らかにアーノルドが要求したのは、「真の男らしさ(true manliness)」であって夜郎自大のバンカラではなかった。

オリンピックのような場における柔道、ボクシング、レスリングのような格闘技ばかりでなく全ての競技、とりわけサッカーやラグビー、アメリカン・フットボールのような競技に際しても、「蛮カラ」や「東洋豪傑流」を気取るような精神的虚飾(虚栄心)が入り込む隙間は、どこにも無いことはテレビ画面を通じて子供にもわかることである。
明治大学総長・武田孟は、かって安部磯雄を表して次のように述べたという。

 先生が野球選手に求められたものは単なるスポーツマンではなかった。
 人間として立派な社会の指導者となるために、学生時代から紳士としての風格と、世界的視野に
 立つ見識を備えることを期待された。(続く)