「私の散歩道」は、会員の方ならどなたでもご登録できます。
あなたのお気に入りの場所を皆さんにご紹介しませんか?
『日本野球の父・安部磯雄の偉業―人生の岐路』

西早稲田「前野書店」内掲示の古いポスター
2019年10月10日(木)
道場主 
[東京都]
新宿区西早稲田
V−T 強い留学願望と逞しい語学力


T−1 アメリカ、そしてドイツで

明治24(1891)年9月18日、26歳の安部磯雄は留学先のアメリカ合衆国コネチカット州ハートフォード神学校に到着し、三階にある寄宿舎の一室を与えられた。既にこの学校では安部より4歳年上で札幌農学校出身の内村鑑三が、明治19年9月から4か月弱の留学生活を送り、非常に勉強家の内村の態度が周囲に与えた好印象の恩恵を安部は感じたという。
ハートフォード神学校の学生総数は40人程で安部の同級生は14,5人、その中に黒人2人、アルメニア人もいたが宗教学校のせいか、安部は一度も人種的差別を受けることがなかった。

教室では旧約聖書の原書をヘブライ語で読み、新約聖書はギリシャ語で読まなくてはならなかった。他の学生たちは既にそれぞれの大学における学部教育4年の間にギリシャ語を学んでいて、安部は個人教授(有料?)を受けてギリシャ語を集中的に勉強し、第一学年の開講2,3か月後には早くもギリシャ語で新約聖書を読めるようになったという。
ヘブライ語においては各学生の出発点は同じであり、ヘブライ語の教室では安部は常に先頭に立っていたという。注目すべきは、アマースト神学校では成績優秀の学生に対して50ドルの賞金を出すことにしていて、一年級の対象科目ヘブライ語において安部は、もう一人の学生と賞金を分け合ったという。二年級では組織神学という科目において安部は単独優勝し、その明晰な頭脳と語学力とを示した。

2年生になった安部は日曜日になると田舎の教会に招かれ牧師として説教を行い、説教ばかりでなく日本に関する講演を依頼されることもあって、思わぬ収入を得ることが出来たという。最初から安部は、アメリカ滞在費の不足分は伝道による収入で補おうと考えていたわけで、専任の牧師を抱える資力のない田舎の教会に、都会から伝道師や神学生を送り込むキリスト教の制度をきっちりと利用する逞しい生活力の持ち主でもあった。

学業成績もさることながらハートフォード神学校留学中の安部について記憶すべきは、彼が同校でテニスに注力し、卒業間際には40人中の3位にランクされていたことである。そのテニス・プレーヤーとしての資質は長男・民雄に引き継がれ、安部民雄(後に早大文学部教授)は早大在学中からテニス部で頭角を現し、昭和2(1927)年、全日本庭球選手権男子シングルスで優勝し、昭和3年から4年までデヴィス・カップ日本代表選手を務めている。

明治27(1894)年6月7日、安部(29歳)はハートフォード神学校の卒業式において、11人の卒業生の中から選ばれた4人の卒業演説者の一人として、” A Christian View of Economics”(キリスト教徒の経済学観)と題して演説し、その中で言及した「人類愛と経済の追求」が、安部磯雄の終生のテーマとなった。

さて、そこまでキリスト教宣教師としての修行を積んだ安部磯雄はハートフォード卒業前から、将来日本でキリスト教を指導するには「新神学運動(自由神学)」を学ぶ必要を感じ、そのためのドイツ留学を望んでいたが資金が足りず、思い余って安部は校長ハートランフトに手紙で相談する。その結果、幸運なことにハートフォード神学校ゆかりの篤志家の一人が安部のドイツ留学費用二年分の寄付を申し出たという。安部に名前を明かさない某篤志家のおかげで金銭的メドが立ち、安部は3年前、自らの「止みがたい海外留学願望」を快く受け入れてアメリカに送り出してくれたキリスト教岡山教会に対して、明治27年2月1日、留学1年延期の願い(書簡)を提出した。岡山教会は会合の結果、同年3月、安部の留学延期願いを喜んで許容してくれた。

明治27(1894)年6月30日、ハートフォードを出発した安部はニューヨークからイギリス経由でドイツに向かい、目的地ベルリンには8月11日に到着した。だがその前にイギリスで、安部は自らの生涯を決定づけた二つの大きな体験をする。その二つの開明的体験については後ほど(次々回)詳述するが、その前にドイツにおける安部の語学的努力について触れておきたい。

ベルリンに到着した安部は、すぐにドイツ語の個人教授を探し、その個人教授の家に寄宿して3か月半もするとドイツ語を読むことも話すこともかなり出来るようになったという。ハートフォード神学校でヘブライ語やギリシャ語に立ち向かったように、ドイツ語においても並外れた才能を示した安部は、そこまでの準備をした上で、10月25日、ベルリン大学神学部に入学の手続きをする。
同時にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書を歴史的に研究した安部は、ハイデルベルヒ大学教授ヴエンテの著作『Lehre jes(イエスの教訓)』二巻を読破し、それまで抱えてきた宗教上の積年の疑問を解決することが出来たという。


T−2 同志社から早稲田へ

ところが好事魔多し、明治25年と26年、2年続けて岡山は大暴風雨に襲われ甚大な被害を被っていた。自分を快く送り出してくれた岡山教会の人々にそれ以上甘えることはできないと決意したのであろうか、安部はベルリン大学神学部に入学して間もないのに明治28年1月3日、ベルリンを出発して2月14日には長崎港に到着、しばらく両親のいる郷里福岡に滞在してから2月22日には岡山駅に着いた。

同志社英学校を経て同志社神学校を卒業した安部(23歳)は明治20年、新島襄・八重夫妻の期待と信頼の中で初めて牧師として岡山の地に赴任したのであった。その岡山で再び信徒に歓迎された安部(30歳)は、程なくして明治28年7月3日、婚約者・村上駒尾(祖父の実家の出身)と結婚式を挙げる。婚約して10年、駒尾(28歳)は、安部の仕送りを受けながら梅花女学校(大阪府)を卒業したばかりであった。
その後、安部は岡山で教会牧師の傍ら私立関西中学校で2年間教鞭を執っていたが明治30(1897)年7月3日、岡山教会に辞表を提出する。母校同志社から教師として招聘されたのが直接の理由であった。明治30年9月新学期から、安部は同志社尋常中学校(4年制)で教頭として教壇に立ち、庭球部を指導し、翌明治31年夏にはボート部監督として琵琶湖畔長浜での1か月間の合宿にも同行した。しかしながら、同志社の経営を長年担ってきたアメリカンボード(北米最初の海外伝道組織 American Board of Commissioners for Foreign Missions)とは対立する考えの持ち主であった安部磯雄は、明治32年3月、同志社を退職して上京する。

安部の上京を待っていたかのように、同志社の同級生・岸本能武太(きしもと のぶた)の斡旋によって、安部は東京専門学校講師(英語教師)として城北早稲田の地で教鞭を執ることになったのである。安部より1歳年下の親友・岸本能武太は同志社英学校卒業後ハーバード大学に留学、神学科を卒業して帰国後は東京専門学校で比較宗教学を講じ、東大教授姉崎正治(あねさき まさはる)と共に「比較宗教学会」を設立した人物である。
岸本や安部以外に同志社出身の早大教員として大西祝(おおにし はじめ)、浮田和民(うきた かずたみ)が名高い。今(2019年9月27日〜11月3日)、早稲田大学歴史館 企画展示ルームにおいて、『進取の精神の実践者―同志社から来た教員たち』と題する企画(主催 早稲田大学大学史資料センター)が展示されている。その会場に置かれたパンフレットに記載された挨拶文の一部を紹介すると……新島襄のもとでキリスト教主義の教えを受けた彼らは、実学的な社会科学が主流だった早大に、哲学的、倫理的思考に裏打ちされた精神性をもたらしました。他方、キリスト教に帰依しつつも伝統的な教養に飽き足らなかった彼らは「思想の点ではあくまでも自由で、いかなる異主義の人を容れて、少しも干渉はしない」(坪内逍遥)早稲田の中で、その思想を存分に開花させていきました。……

当然の成り行きとして明治32年4月、安部(34歳)は東京専門学校幹事(後に第4代早大総長に就任)田中穂積(たなか ほづみ)に付き添われて東京専門学校の創設者・大隈重信(当時61歳)に就任の挨拶をした。その時、話題は安部の追求する「社会主義」にも及んだが初対面でもあり、それについて両者の間で突っ込んだ話し合いが行われたわけではない。だがこの初対面で大隈重信は、黒田藩馬廻頭・岡本権之丞の次男として生まれた安部磯雄の、人物そのものを見抜いたのではないか。
「社会主義者」とか「○○主義者」とか区別(差別?)する「小さなモノサシ」を振り回していては、大隈重信は30代で大蔵大輔、参議、大蔵卿という大任を担い、大久保利通、木戸孝允らと共に「維新回転の大業(中世から近代への飛躍)を完遂する主導的人物」として、冷徹に剛腕を振るうことは出来なかったであろう。明治5(1872)年完成した新橋横浜間鉄道建設の必要資金をイギリスから調達した大隈重信は、その事により、「夷狄のカネを借りた張本人」として命を狙われるという未開野蛮な社会(明治時代初期の日本)で力の限りを尽くしていたことを忘れてはならない。

明治4(1871)年7月14日、この日朝から始まった「廃藩置県」という「日本が世界に誇るべき無血革命」は、一致団結した三藩(薩長土)の人々の周到な準備と不退転の意志とによって見事に敢行され、封建領主たち(大名)は僅か1日で失業(権力喪失)した。
しかしながら「無血」とは言っても、「革命(統治体制が急激かつ根底的に変革されること)」である限り、犠牲者はつきものである。生活の糧を失った「士族」を救うために「秩禄公債」「金録公債」等も発行される中で、安部磯雄の父・岡本権之承もその犠牲者の一人となっていく。

黒田藩・馬廻頭として200石の軽格ながら藩主の護衛隊長的立場にあり、柔術を最も得意とし、弓馬槍剣その他武芸十八般の指南役であった岡本権之承の家には、次男・磯雄が生まれた時(元治2年2月4日)、屋敷内には柔術道場があって黒田藩士らが出入りし、作男が3人、女中が3人、生まれた磯雄には乳母もつけられていた。ところが「廃藩置県」後、武士の商法もうまくいかなかったのか、明治10年頃には岡本家の屋敷はそれまでの三分の一の広さに縮小され、柔術道場どころか風呂場も無くなって銭湯通いとなり、6人いた雇い人も全ていなくなっていた。祖父は臨終の床で権之承に対し、「磯雄は県庁の給仕にでも出したらどうか」と言い置いて逝ったという。

封建勢力(200余名の大名とそれに連なる200万余と言われる人々)排除によって国家の近代化を謀った人々は、兵権、徴税権、行政権の一元化によって、一年と言わず一日も早く「文明国」の仲間入りをしたいところであったが、いわゆる「廃刀令」という「太政官布告」が発布されたのは漸く明治9年3月になってからであった。 そういう世相の中で、明治5年には、欧米を手本として学制(学校制度)が整備されたが、働き手としての子供を小学校に奪われる親が、村落共同体の秩序破壊等々を理由として、騒動(学校に反対する一揆や焼き討ち)を引き起こすような「民度」に留まる明治初期日本社会であった。

明治元(1868)年4月、長崎におけるキリスト教徒弾圧事件を糾弾する列国外交団に対し、外国事務局(外務省の前身)判事(課長?)として大阪東本願寺における会談に臨み、外交団をリードする英国公使ハリー・パークスを相手に、「内政干渉」等の言葉(英語)を用いて堂々と渡り合い、パークスのみならず列席した外国語(英語)オンチの三条実美、西郷隆盛、大久保利通らの舌を巻かせたのは、当時30歳の佐賀藩士・大隈八太郎(重信)である。

木戸孝允(桂小五郎)の強い後押しを得た大隈八太郎は、翌明治2(1869)年には大蔵大輔に就任、築地本願寺に近い敷地5000坪の屋敷を購入した。「築地梁山泊」と称された豪勢な大隈邸には、伊藤博文、井上馨、前島密や渋沢栄一ら若手官僚の他、文人墨客までもが入り浸り、この年、大隈の妻(大隈にとっての再婚)となった旧旗本の娘・三枝綾子(当時19歳)は、これらの人々を懸命にもてなしたようである。その後50年、大隈に寄り添った綾子夫人は明治から大正にかけて、賢妻の誉れ高い人物として知られていた。

こういう大隈重信と、その腹心・高田早苗(明治15年、東京専門学校創立に参画、校規の起案、カリキュラムの作成、教員の選定を初め、学監、学長、総長を務めた早稲田の主導的人物)とに信頼され、重用されて早稲田スポーツの振興(とりわけ野球部の興隆)に25年間、「殆んど毎日のように現場(グランド)に出て」、渾身の力を振るったのが、「敬虔なプロテスタント」にして「社会主義者(人道主義的正義感の持ち主)」安部磯男である。


T−3 スポーツという「言葉(概念?)」が無かった日本

さて、福沢諭吉はcivilizationを「文明」と、そしてspeechを「演説」と翻訳した。福沢は初め「演舌」としたが「演説」に改めたという。ついでに言えばphilosophyを「哲学」と訳したのは榎本武揚らと共に徳川幕府派遣留学生としてオランダに4年滞在し、ライデン大学等で学んだ西周である。幕末まで日本には、そういう言葉はなかった。他の誰かがmilitary engineeringの対語としてのcivil engineeringを「土木」と翻訳したのは蓋し名訳ではないか。ところがsportには(適切な?)訳語がなく、今日でも「スポーツ」である。
そしてその「スポーツ」という言葉が日本で初めて使われたのが、ようやく明治44年ないしは明治45(1912)年になってからのことであった。「スポーツ」という言葉を日本で初めて使用したのは、安部磯雄が引率した早大野球部米国遠征団(第1回)の主将(遊撃手)を務め、早大文学部を卒業後改めてアメリカで4年を暮らして帰国し、ジャーナリスト(新聞記者)となった橋戸信(橋戸頑鐵)であると言われている。
明治時代、「運動競技」という言葉は日常茶飯に使われていたが、sportに匹敵する「日本語」は無かった。明治から昭和まで「身体之教育」、「身体教育」、「遊戯」、「体操」、「教練」、「体練」等の言葉はあったが、英米におけるようなスポーツという「言葉(概念?)」が日本には無かった。あやふやな日本語ではなく、「スポーツ」を「スポーツ」として初めて使用したジャーナリスト橋戸頑鐵の卓越した見識については次回に言及したい。

明治以来、鉄道その他インフラは発達し寺子屋や藩校に代わる「学制」も整備され、ベースボール、テニス、蹴球、陸上競技、ボート競技その他各種の運動が「輸入」されたが、大多数の日本人のメンタリティー(精神構造?)は徳川時代とさほど変わらず、1920年に至ってもスポーツを「遊戯」と訳して、さほどの違和感を持たなかったのである。
一例を挙げると、大正9(1920)年発行の雑誌『野球界』(第拾巻第九号)は、シカゴ大学野球チームと共に来日したシカゴ大学(市俄古大学)教授メリーフィールドの「遊戯の道徳観」と題する談話を掲載したが、その談話(論文?)の冒頭には、「スポート(Sport 以下遊戯と譯す)の趣味は誰にもある」と記されていた。

近代オリンピックの創始者クーベルタン男爵は、スポーツを「自ら努力すること(l'effort libre)」と定義して、「スポーツを中心とする身体活動を重要な手段とする教育の普及」に邁進していたが、明治42年1月、そのクーベルタンの友人である駐日フランス大使ジェラールの訪問を受け、アジア初のIOC委員就任の要請を快諾したのは東京高等師範学校長・嘉納治五郎(講道館長)であった。
だが、嘉納治五郎がオリンピック参加を視野にスポーツ団体結成を各方面に打診した時、大方の反応は、「たかが外国(西洋)の運動会に(日露戦争に勝った)日本(上等な国?)が、わざわざ行ってやる必要はない」というものであった。
「日本海(対馬沖)海戦大勝」という世界戦史に画然たる大勝(大捷)に酔っていた日本人は、しばらくの間、ロシアを破って全ての白人(Caucasian)に勝ったような思い(錯覚)に囚われていたのである。世間知らずと言うべきか、そういう傾向(国民性)は21世紀の今も変わっていない。

今、殆どの日本人は知らない(忘れている)が明治8(1875)年3月まで、横浜の山手(元町界隈)にはフランス海兵隊及びイギリス海兵隊300名余りが駐屯していた。横浜租界(横浜外国人居留地)の居留民(西洋人)保護のためである。
屈辱的対外関係(関税自主権を持たず、治外法権を認めるという半植民地国家)のまま出発した明治維新以来、帝国主義国家群(独、露、英、仏、米)に取り囲まれて、日本(明治新政府)は、軍事力の近代化を最優先の課題として破格の待遇の御雇外人教師(技師)や、官費留学生の選抜派遣等を通じて、「西洋最新の技術や知識、就中その成果」を取り入れることに汲々としていたのである。
嘉納治五郎が明治11年、東京大学文学部第2期生(同期6名)に編入され、政治学、理財学(経済学)を学び始めた当時、同学部唯一の日本人教授・外山正一の月給は150円であったが、25歳の哲学(政治学、経済学)教授アーネスト・フェノロサの月給は300円、住宅手当50円も付いて本郷赤門の中の外人教師住宅では新婚ホヤホヤのフェノロサが、執事や車夫ばかりでなく10人もの女中を雇っていたのが当時の実態であった。巷では小学校平教員の月給が5円、巡査の月給が6円の時代である。

中世(封建社会)から近代へと慌ただしく「飛躍」する中で、当然のことながら日本国民には福沢諭吉の言う「万の商売船、千の軍艦の背後にある西洋文明の根底」を顧慮するような暇は無かった。軍事力はそこそこに整ったとは言え、日本海海戦大勝をもたらした連合艦隊旗艦「三笠」を始め、主力戦艦「敷島」「富士」「朝日」等々、全てイギリスの造船所で建造された軍艦を買って来たものであり、日本が鋼鉄製の軍艦を作れるようになったのは日露戦争が終わって暫く経ってからのことである。最先端の軍事力の実態が示すように日本の近代化は、西洋文明の成果を吸収するに止まらざるを得ず、「万の商売船、千の軍艦の背後にある西洋文明の根底」を顧慮するどころか、文化的に日本のレベルは、スポーツという概念が「遊戯」あるいは「気晴らし」の域に止まったままであった。


T−4 日本女子体育の母・井口阿くり、そして永井道明のアメリカ留学

既に明治38年11月、旧制姫路中学校長・永井道明(ながい みちあきら41歳、東京高等師範学校出身)は、「体育研究の為、満3年間欧米留学を命ず」という文部省からの辞令を受け取った。ニューヨークに到着早々、永井は滞在学校選定の視察に着手、その結果女子校であるボストン体操師範学校に入学し、客分(guest)として修行することに決め、校長エミー・ホーマンズ(Miss Amy Morris Homans)の厚意で、彼女の自宅にお世話になることになった。
客分として永井が1年半在学したボストン体操師範学校は女子の学校で、彼が卒業して間もなくウェルズレー女子大学に合併されウェルズレー大学体育部となったが、永井の客分としての特別修行も卒業と認められ1907年、卒業生名簿にその名前が掲載された。そのため帰国後の永井に時々アメリカから来る手紙の中には、永井ミチアキラ嬢(Miss Michiakira Nagai)と記されているものがあったという。
永井は当時日本の「国民体力の貧弱」を憂えて明治35年、兵庫県立姫路中学校々長として赴任すると、「全国民体育の必要性」を痛感する自らの信念に従い、生徒たちに熱心に体操を指導して教育的効果を上げ、評判を高めて「体操校長」と呼ばれた。
そういう永井は日露戦争が始まり満州の野における日本陸軍の連戦連勝に大いに刺激を受け、西洋人に比べては体格、体力が劣っている日本国民に対して、「日本の精神に相当すべき世界的体格を具備せしめんこと」を一貫して自らの信念としたところを見ると、かなり直情径行型の人物ではなかったか。
永井の信念(意気込み)は壮とすべきであるが、西洋人(欧米人)やアフリカ人あるいはトンガ、サモア等南洋の人々と、日本人(東洋人)との体格、体力の差(格差)は、DNAの配列も異なり、21世紀の今日においても50年や100年では埋まらない(永遠に解消しない?)問題ではないか。そのことを子供にも分かるように教えてくれるのがラグビー・フットボール、アメリカン・フットボールそしてバスケットボールというスポーツ即ち身長・体重制(限)のない集団球技(集団格闘技?)である。

永井を指導したホーマンズ女史は非凡な管理能力の持ち主であり、ボストンで最も富裕な夫人の一人であるヘメンウェイ夫人を助けてボストン体操師範学校を創設、「スウェーデン体操」を主柱とする体育教師専門教育の開拓者であった。
正に「女子体育の開拓者(パイオニア)」とでも称さるべきホーマンズ女史は、「体育においてのみ人間完成をはかり得る」という信念の持ち主であったという。帰国した永井道明は東京高師及び東京女高師(お茶の水女子大学の前身)両方の教授に任命される。

そしてその後、母校東京高師において嘉納治五郎校長の下で生徒監を務め、それまで誰も成し遂げ得なかった日本最初の「学校体操教授要目(大正2年文部省公布)」を作成した永井道明より6年も早く、明治32(1899)年、文部省によって教育学(体育)研究のため満3ヵ年のアメリカ留学を命ぜられたのが、「日本女子体育の母・井口阿くり(いのくち あくり)」である。

このボストン体操師範学校で井口阿くりは、体操科、医術体操科、運動理論学、舞踏(エセテイック・ダンス)、遊戯法を2年間学び、並行して解剖学、生理学、競争運動術(Athletics)、体育実施法(Art of Teaching)、心理学、教育学を1年間学んで1902(明治35)年、同校を首席で卒業した。
明治36年ヨーロッパ経由で帰国した井口阿くり(33歳)は、女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)教授に任命され、彼女の帰国を待って新設された国語体育専修科の担任となった。

日清戦争勝利の余慶と言うべきか、この頃の日本は積極的(前向き)で、井口阿くり渡米の前年明治31年、アメリカ留学を命ぜられたのが秋山真之海軍大尉(30歳、海兵17期首席)であった。3年間の留学期間の後半、秋山はアメリカ合衆国海軍の中核をなす北大西洋艦隊旗艦ニューヨークに乗艦を許され大西洋を周航、サムソン司令官、チャドウィック参謀長ら同艦隊幕僚部と6か月間、寝食を共にしたばかりでなく、スタッフの一員として演習にも参加するという僥倖(貴重な体験)を得たのである。帰国後、海軍大学教官として秋山少佐は、「アメリカ海軍の空気と、感情と、科学的方法と組織と」について、飛びつきたくなるように魅惑的で、筋が通って胸のすくような講義を行ったと伝えられている。

この時代に井口や永井、あるいは川瀬元九郎や坪井玄道、二階堂トクヨら、開拓者(パイオニア)として欧米の体育を学んだ人々の夫々の分野における功績は大きい。しかしながら一般国民の体育あるいはスポーツに対する意識(メンタリテイー)は、封建時代(幕藩体制)を引き摺ったまま旧態依然たるものであった。これといった競技団体の成立もないまま、オリンピック参加を視野に入れた嘉納治五郎の呼びかけにより、「官」に頼らない純民間団体「日本体育協会(体協)」が創設されたのは、漸く明治44(1911)年のことであり、中断されていた早慶戦の再開と共に「東京六大学野球」がスタートしたのは1926(大正15)年のことである。

「体育(physical education)」が19世紀から20世紀にかけて、先進国イギリスやアメリカ社会で占めた位置と役割とが、日本社会において同等の重みを持つようになったは、第二次世界大戦惨敗後になってからである、と言っても過言ではあるまい。
軍事力やそれに付随する技術、知識を最優先にして西洋文物の取入れに忙しかった日本の近代は、軍備、鉄道や逓信制度の整備等々、遅れが目に見える事物の採用、吸収に追われ、西洋文明の根底を顧慮するまでには至らなかった。
教育も同じく、「知育の偏重」に傾き、「知情意の円満均整のとれた人格者」の養成にまで思いは至らず、「知識万能主義」が瀰漫して、「熱しやすく冷めやすい軽薄な社会(文弱傾向?)」を招来する大きな一因となった。
一方、英国パブリックスクールが掲げた「教育目標」では、「知的能力(academic ability)の養成」よりは優先される上位に、「真の男らしさ(true manliness)」や「紳士的行動の実践(gentlemanly conduct)」が目標として置かれていた。この事に関しては次々回で詳述したい。

体操(体育)こそが、身体と心を(精神)とを併せて鍛える道であることを身を以て示した「日本女子体育の先駆者(パイオニア)」井口阿くりは、次のように指摘した。
…アメリカでは「体操科」は学校教育の枢要の地位を占めているのに対して、日本では「体操科」の教育的価値は殆ど認められていない。…
井口が留学した当時、アメリカの生徒たちは「体育」の授業には全員「体操着」に着替えるのに、日本では、せいぜい和服にタスキをかける程度であった。そういう中で、「ブルマー」を考案したのも井口阿くりであると言われている。


T−5 第一回早慶ボートレースの実態

今さら言うまでもないが、三人以上の人間が仕事以外のことで集まることは「徒党」という曲事(犯罪)として厳しく罰せられ、何事も「お上(権力者あるいは専制的政府)」からのお沙汰待ちという生活が何百年も続き、英国、米国におけるような「近代市民社会」の経験(体験)を持てなかった人々に、立憲制議会主義あるいは自由民権等々を説くことには無理があり、民間スポーツ団体を結成するようなメンタリティー(精神?)は未だ未発達(未成熟)の日本社会であった。
封建領主(大名)や奉行あるいは警視総監が主催する武芸試合等とは勝手が違って、スポーツ・クラブは出来ても、スポーツ団体(競技団体)を結成するようなメンタリティー(精神構造?)を持たない(持てなかった)人々は他チームと試合をするのに、いちいち相手(校)に挑戦状を送り、場合によっては「格下」として拒否されることも珍しくなかったのである。

一例を挙げると、早稲田大学漕艇部は、先達である慶應大学端艇部に「挑戦状」を届けて試合を望んだが 「格下」として相手にしてもらえず、1905(明治38)年1月に至り、ようやく3度目の挑戦を承諾した慶大端艇部との間に8回の交渉が行われ、双方が契約書に署名捺印したのは同年3月のことであった。話がすぐにまとまらず、8回も交渉が行われた主な理由は、双方の主張する競漕距離に隔たりがあったからであり、早稲田は1500メートルを主張、慶應は1000メートルを主張して、なかなか譲らなかったからである。結局最終的に距離1250メートル、レースは5月7日と決まったが、天候の関係で翌8日に墨田川で行われた。
テレビはもちろんラジオもない時代のことであるから、新聞によってこれを事前に知った東京市民は熱狂し、彼等にとって早慶端艇競漕は東京市の一大イベントとして、今日のプロ野球における日本シリーズなどとは比較にならない「大イベント」、「おおごと」になった。満州の野における「奉天大会戦」に勝利したとはいえ、次に迎え撃つべき「バルチック艦隊」がどこにいるのかわからず苛々チリチリしていた東京市民の中には、「応援団」の一員となって騒ぎ、日頃の憂さを晴らすだけでなく、このレースに金銭を賭ける者も少なからずいたという。
レース前夜、向島にあった早稲田の艇庫には敵軍(慶應)による艇の破壊工作を防ぐという「名目」で、応援団が押しかけ夜を徹して警備(?)するという騒ぎの中で、早大応援団の中には腰に仕込み杖を差して裸馬を乗り回す者もいたと伝えられている。
6人制固定座席で行われた同レースに対する新聞その他大方の予想はボート界の先達・慶應の圧勝であったが、結果は早稲田が一艇身の差で勝利を収めた。レース終了後、墨田川土手(向島界隈)における応援団の騒ぎ(乱暴狼藉)は夜になっても収まらず、東京市内では賭け金が払えず、殴られたり切られたりした者があったとか。
この騒ぎがあったせいか、昭和5(1930)年まで25年の長きに亘って、早慶ボートレースは治安当局の開催許可を得られなかった。作今、桜満開の4月行われる早慶ボートレース開催の現場に、ピカピカの警視庁水上艦艇が賑々しく花を添えるのは、こういうアクシデントの名残であろうか。


T−6 先進国イギリスのスポーツ事情と全英選手権(FAカップ)開催

他方、1863(文久3)年10月26日、ロンドンにおける一つの会合の結果、Football(蹴球)は足だけでボールを処理するAssociation Football(俗称サッカー)とラグビーとに分かれて新たな近代スポーツとして発展を始め、明治4(1871)年には、初めて全英選手権大会(FA Cup)が開催されて15チームが参加するという「先進国イギリスのスポーツ事情」であった。
「世界の工場」そして七つの海に君臨する「世界帝国」として、イギリスは既に嘉永4(1851)年には第1回万国博覧会(万博)を開催(日本では昭和45年に開催)し、その実力を世界に誇示したばかりでなく、名門パブリックスクールを中心に「道徳教育の一環」としてFootball(蹴球)が励行されるという状況にあった。その上、産業革命によって世界一豊かになった国の成果としてか、1860年代になるとパブリックスクール卒業生らが中心となって各地に続々と蹴球クラブが設立された。

ところが、その蹴球(Football)の実態はと言えば、未だ共通のルールがなく、イートン、ハーロー、シュリューズベリー及びウィンチェスターの各校では1チーム11人の構成であったが、チャーターハウス校やウェストミンスター校では1チーム20人の構成で、その上ボールを手に持っての揉み合い(乱闘)も試合中に行われていた。
こういう状況で、対校試合に先立っては、人数その他どちらのルールで試合を行うかを長時間に亘って議論するのが通例であり、それはここに述べた明治38(1905)年の早慶端艇競漕と同じ状況であった。

文久3(1863)年10月26日、ロンドンでの会合に集まった11のクラブの代表たちは「道徳教育の一環」として行われていたパブリックスクール式の蹴球を、世界の隅々にまで普及させようなどという高邁な動機ではなく、「蹴球競技を規正するための規則を確立することを目的として蹴球協会を組織するのが至当である」という動機で集まったのであった。そしてこの会合はロンドン周辺クラブの地域的なもので主要なパブリックスクールや地方有力クラブの代表は参加していなかった一方、名門パブリックスクールの一つ「ラグビー校」出身者が少数参加していた。

集合の趣旨に従って直ちに設立された「協会(Football Association)」は、会合を重ねて正式ルールを制定しようと努めたが、当初はラグビー派とサッカー派に分かれ、ラグビー校出身者は、ボールを手に持って走ることばかりでなく、チャージング、ホールデイング、トリッピング、ハッキングも認めよと主張し、他の人々はこれに反対した。表決の結果はラグビー派の完敗に終わり、彼等は蹴球協会(FA)を去って1871(明治4)年にラグビー・フットボール協会(Rugby Football Union)を結成した。因みに現在、早稲田大学においては俗称サッカー部の正式名称は、「早稲田大学ア式蹴球部」であり、ラグビー部のそれは「早稲田大学ラグビー蹴球部」となっている。

1863年12月8日、FA(協会の略称)によって最初のルールが決定され、前述のように1871(明治4)年には第1回全英選手権(FAカップ)が開催されて2000人の観衆を集めたという。その後、地方のクラブやイングランド以外(アイルランドやスコットランド)の協会との接触を通じて徐々に「ルールの修正、標準化」が行われていった。一例として1873〜74年のシーズンに初めて反則に対する「フリー・キック」の規定が組み込まれたが、皮肉な事に、この時までは「紳士は反則を侵さないという前提」で、競技が行われていたという。


T−7 早大初代野球部長に就任した安部磯雄

さて話を安部磯雄に戻すと、既述のように明治32年4月、東京専門学校講師として早稲田におけるキャリアーをスタートした安部磯雄(34歳)は、東京専門学校がその名称を「早稲田大学」と改めた明治35年には高等予科科長に就任し、明治44年、「早稲田大学校規」「教授会規定」の改正により教授となった。それまで早稲田においては全ての教員は講師であり、高田早苗や坪内逍遥、天野為之らを含めて「教授」という肩書はなかったのである。蛇足ながら、早大商学部長、学長、早実校長を務めた天野為之、早大初代図書館長に就任した市島謙吉、そして早大文学部長を務めた坪内逍遥らは、東大文学部第3期生(明治15年卒、同期10名)として高田早苗の同級生(政治学科の坪内は留年して明治16年卒)であった。

東大文学部第3期生(同期10名)の高田早苗は、護寺院原(現在の神田錦町)の東大文学部教室に同じく東大文学部第2期生(同期6名)嘉納治五郎が、柔術の修行に熱中して膏薬ベタ張りの体で現れ、しかも歳月と共に次第に逞しくなっていく姿をよく見知っていたのではないか。既述のように明治17年頃まで本郷の赤門内(旧加賀藩上屋敷跡地、現在の東大本郷キャンパス)には教室ではなくモースやフェノロサ等、破格の待遇の御雇外人教師の宿舎が建っていたのである。
高田早苗や大隈の信頼を受けて、安部磯雄はその後、大正8年には図書館長、大学部政治経済学科長に就任、翌大正9(1920)年、「新大学令による早稲田大学認可」に伴い政治経済学部初代学部長に就任する。

このような学務、教務とは別に、安部は明治34年4月、新設された体育部(体育会)の部長に就任し、11月3日には自ら野球部を発足させて明治39年まで野球部長と体育部長を兼任した。
その初代体育部長・安部磯雄は、学校近くの水稲荷神社と地続きの空き地とも運動場ともつかぬグランドで早大生10人余りが「チアフル倶楽部」と名付けて草野球をやっていた同好会を、他校と対校試合ができる野球部にまで仕立て上げることに成功し、体育部(体育会)創立と同時に設立された柔道部、剣道部、弓術部、庭球部、漕艇部と肩を並べることになった野球部の部長に就任したのであった。


T−8 草創期早大野球部の逸材

安部は自らは野球を全く知らず、もっぱら庭球部の選手たちと毎日のように汗を流していたが、そこに青山学院中等部で好投手だった橋戸信(頑鉄)が入部してきた。テニスで共に汗を流した安部は、橋戸に庭球部ではなくチアフル倶楽部入りを勧めたという。「類は友を呼ぶ」という言葉があるが、幸運にも安部が遭遇した草野球チーム「チアフル倶楽部」の学生達は、当時日本の野球界におけるトップクラスの能力を備えた資質の高い人々であった。

チアフル倶楽部にいた押川清(郁文館中学で投手、後に早大野球部同僚の橋戸信、河野安通志と共に日本最初のプロ野球チーム「日本運動協会」を設立、第1回野球殿堂入り、兄・押川春浪は早大在学中に冒険小説家として作家デヴュー、スポーツ社交団体「天狗倶楽部」を創設)や、神戸一中の名選手だった泉谷裕勝(後に宮内省に入省、摂政宮(後の昭和天皇)の希望により結成された「宮内省野球班」の中心人物)などと、橋戸が一緒になると、そこそこのチームになったのである。

チアフル倶楽部改め東京専門学校野球部は、そこでさっそく学習院に試合を申し込み明治34年11月10日には最初の対校試合が行われた。当時学習院野球部は一高野球部と並ぶ強豪チームであり大敗を覚悟していたが、9回裏に東京専門学校が逆転勝ちを収めた。褒美として部員たちは安部から神楽坂のレストランでチキンカツを奢られたが、ナイフやフォークを使うのが初めての者が多かったという。それにしても「チアフル倶楽部」とはセンスのある洒落たチーム名ではないか。

翌明治35年、東京専門学校は創立20年を迎えて大学組織となり、名称も早稲田大学と改められたが、この年、運動用地として戸塚に広がる約五千坪の水田、竹やぶなどを破格の安値で借り受け(後に購入)、三千坪を野球部が、二千坪を庭球部が使うことになった。ここに野球部専用のグランドとして建設されたのが戸塚球場(後の安部球場)である。
野球が文字通り国民的スポーツにまで高まり、東京六大学野球が発足した1925(大正14)年、戸塚球場には3万人を収容する大スタンドも作られた。翌大正15年秋、明治神宮球場が完成し、野球はその表舞台を神宮球場へ移したが、なお戸塚球場は学生野球の重要な舞台として、昭和8年には全国に先駆けて夜間照明設備(ナイター設備)が設置された。
周知のように映画にもなった「出陣学徒壮行早慶戦」別名「最後の早慶戦」は、太平洋戦争に敗色が漂い始めた昭和18年10月16日、この戸塚球場で戦われたのである。


T−9 米国遠征に至る経緯

そして明治37年春、創部4年目の野球部集会において野球部長・安部磯雄は、「もし諸君が、一高、慶應、学習院の三大強豪を破って対校試合に全勝したら、アメリカに連れていきましょう」と言ったという。部員からは驚きと喜びを表す歓声があがったが、冷静に考えれば到底無理な話で、自分たちを励ますために安部が言っているものと考えた部員が多かったようである。ところが、この明治37年の春と秋、創部4年目の早大野球部は時の三大強豪をなぎ倒して全勝を果たした。

まず、5月27日、四谷にあった学習院グランドで早稲田が14対7で学習院に勝利し、6月1日には弥生が丘の一高グランドにおいて9A(アルファ)対6というスコアで早稲田が当時最強と言われた一高を見事に破ったのである。明治23年11月から、この時点までの所謂「一高全盛時代」においては、慶應、早稲田などは全く問題とされず、試合を申し込むにしても辞を低くして、正式試合ではなく練習試合という形にして、ようやく対戦の栄に浴するという雰囲気であった。翌6月2日、今度は慶應も一高に勝利し、これによって日本野球の流れは変わった。

そして6月4日、三田の慶應グランドで早慶戦が行われて13対7で早稲田が勝利する。続いて7月20日、プライドを懸けて春の雪辱を期す学習院から再度の挑戦を受け四谷の学習院グランドで行われた試合は、当時日本野球界稀有の激戦と呼ばれた熱戦で、それまでの記録を破る延長12回まで戦われ、3対2で早稲田が勝った。なお、この試合で初めて、それまでカウント外であったファウルをストライクとして数えるルールが採用された。野球シーズン明治37年の仕上げは春に破った慶應を初めて戸塚球場に迎えて10月30日に行われた早慶戦であり、慶應投手・桜井の体調不良で17のフォアボールを得た早稲田が12対8で早慶戦連勝を果たした。

まさかと思いながらも野球部員が安部の前言を指摘すると、安部教授は早速、大学当局に野球部の米国遠征企画を持ち込んだ。あっけにとられた大学当局には安部が気がふれたのではないかと首をかしげる者はいても、検討しようと言い出す者はいなかったという。そこで安部は大隈に直接会って学生たちが「スポーツで国際交流」をはかることの意義を説明した。
大隈が早大総長(名誉職)に、高田早苗が学長に就任したのは明治40年のことであり、この時点では鳩山和夫校長(学長)、高田早苗学監という布陣で大学の運営は行われていた。余談ながら、総長就任式で黒い角帽と「真紅のガウン」を纏った身長180センチの大隈重信の姿は、正に「絵になる」ものだったのではないか。
明治38年の時点で大隈自身は政界を離れ、ヨーロッパの哲学、文学等幅広い各種文献の日本語翻訳出版事業を行う「大日本文明協会」の会長職に注力する「在野の巨人」という存在であった。
安部の説明に対し大隈は「学生には学生のなすべき道がある。いくさをやるものはほかにある。学生が見分を広めるために外国へ行くのに何のさしつかえがあるものか」と答えたという。

この年2月に火蓋が切られた日露戦争において、乃木大将が多大の犠牲を払いながら旅順要塞攻略作戦に苦戦を強いられている最中の話である。仮に旅順が陥落した後であっても、野球をするための洋行が許されるような社会状況でなかったことは明白である。一説によれば、恐る恐る安部の「約束(?)」を口にした野球部員に対して安部は、「よろしい。承知した。しかしあいにくと日露戦争が始まったから、政府が許すかどうか分からず、国民の批判がどうあるかも気にかかる。ここは一番、先ず大隈伯に相談してみましょう」と言ったという。

大隈が「いい」と言うのだから大学の理事会もそれならばと承認、明けて明治38年早々に理事会で野球部の渡米は承認され、そのための臨時予算五千五百円が組まれた。当時、大学の月謝収入(授業料収入)が一万円に及ばなかったのだから、大変な金額であった。
いよいよ渡米期日が迫って五千五百円の金を渡す時、鳩山和夫学長は安部教授に対して、「君、この金は、見込み通りに行かなくなって返さなくていいんだよ。今や大学の年総予算は二十万円くらいに達している。この程度の金は何でもないんだ」と言ったという。因みに鳩山和夫は、大学南校を首席で卒業、明治8年、「第一回文部省派遣留学生」として小村寿太郎ら7名と共に渡米した。コロンビア大学法科を卒業後、エール大学大学院に進み法学博士号を取得して明治13年8月(24歳)には帰国、東京大学法学部講師に任命された秀才である。

結局、早稲田大学野球部による「日本初のスポーツ海外遠征」という、当時としては「破天荒な国際的大計画」を実現に至らしめたのは、「在野の巨人」大隈重信の高邁な見識と大きな度量、そして安部磯雄教授の識見と行動力、極めて高い人格に基づく感化力(指導力)とであった。次章(次回)では安部の大きな感化力(指導力)の実態に、次々章(次々回)ではその指導力の源泉(原動力)に注目したい。(続く)