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『日本のスポーツ力(教育力)―国際人嘉納治五郎、同安部磯雄の土性骨』、序章及び目次

筑波大学発行パンフレットより

「体協」結成準備会が行われた「東京高師」跡地

早大図書館(旧安部球場跡地)構内の安部磯雄像
2013年04月08日(月)
道場主 
[東京都]
文京区、新宿区
東京メトロ「茗荷谷」下車、筑波大学東京キャンパス、文京区関口、新宿区西早稲田
序章(プロローグ)


徳川幕府瓦解の時、幕府陸軍撒兵隊副隊長(少佐、26歳)であった江原素六は、「江戸城無血開城」後の明治元年5月、「市川・船橋戦争」に巻き込まれて官軍の巨漢兵士に組み敷かれた。
相手の短刀を下から必死で防いでいるところを、部下の古河善助(後の陸軍中将・古河宣譽)に救われ、江原は辛うじて敵の刃を逃れたという。
ところが息つく間も無く、官軍の銃撃によって左足に3発の銃弾を受けて動けなくなり、戸板に乗せられ民家に運ばれて1ヶ月、転々と市川周辺の民家に潜伏して傷を癒した江原は、引き続き官軍に追われる「指名手配のお尋ね者」として、江戸市中から静岡県沼津周辺に潜伏を余儀なくされた。
逃亡潜伏中は偽名を用いることになるが、江原は一時、自らを水野泡三郎と名乗っていた。
その後、勝海舟の後ろ盾もあってか、徳川藩(静岡藩)藩士そして「廃藩置県」後の静岡県幹部として、江原素六は日本最先端の沼津兵学校(徳川藩士官学校)の創設、愛鷹山麓の開拓による牧畜(牛乳生産)あるいは製茶輸出等々、パイオニア的事業の指導者として、縦横の活躍をするうちに肺結核に罹って、死の淵をさ迷うという体験をする。
明治11年、36歳にして「キリスト教徒(篤いプロテスタント)」となった江原素六は、明治23年の第一回衆議院選挙に初当選以後、明治政界重鎮の一人であり続けた。
そして日露戦争直前の明治36(1903)年、衆議院議員(立憲政友会協議員、立憲政友会教育調査局委員長)兼麻布中学校長・江原素六は、『青年と国家』と題する著作を公にし、その中で次のように述べている。

わが国の現実世界をよくよく考えてみると、政治、宗教、教育、文学、実業などあらゆる社会を通じて、沈滞腐敗の極点に達し、政治家には常操なく、宗教家には徳行なく、教育家には定見なく、文学家および実業家には理性と根気がない。
そうでなくてさえ貧富の懸隔はなはだしく、富者は富に驕り、貧者は貧に苦しみ、世の中で人の守るべき道も危機に瀕しており、人の心もすさんでいる。

平成25年ならぬ明治36年の日本は、何故そんな国になってしまったのか。
江原素六の見解は次のようなものであった。

維新後の開化により文運が興隆して以来、わが国の教育方針は まったく知育に偏し、体育は無視されるようになった。
その結果はどうかと言えば、わが国民は、神経的狂人となり、神経が高まれば一時的に取り組み、それが冷めればやめるという具合である。
気長に事に従事し、これを完成させるということがない。
このため偉大な事業はことごとく欧米に占有され、彼らを羨むだけである。
熱中しやすく冷めやすい性格は、病的なまでに国民性の中に浸潤しているが、青年においては、比較的その影響が薄い。
青年諸氏は、たとえ知的には愚鈍だとしても、その体質を健全にし、その精神を健全にし、普通の判断力を養い、事の大小を問わず、進取的に、忍耐的にその効果があらわれるまで孜々として努めることが必要である。

長い間、「武士のたしなみ」とされてきた武芸十八般(弓馬槍剣等々)が軽んじられるどころか、全く顧みられなくなった、維新以来の日本社会の風潮を痛切に嘆き、その結果もたらされる日本国の将来を深刻に危惧した一人が江原素六である。
この叙述によって我々は、日本社会の根本的な課題(病根)、とりわけ知育偏重による「文弱」」という傾向が、江原が生きた明治、大正の時代から平成20年代の今日に至るまで、全く解決(克服)されていないことを痛感する。
こういう問題意識(危機感)と、それに対応する教育理念に基づき、明治28(1895)年、麻布中学校(麻布学園の前身)を創立し、自ら校長として運営する江原素六が、明治政界重鎮の一人でありながら文部大臣あるいは衆議院議長への就任を再三固辞したのは、麻布中学校の校長としての職務を優先したからであった。
80歳で同校の箱根遠足に付き添って数日後、脳溢血で死去するまで麻布中学校長であり続けた貴族院議員・江原素六は、教育家として、その本懐を遂げたと言うことができよう。
江原素六(幼名鋳三郎)の父・江原源吾は、勝海舟の父・勝小吉と同じく、幕臣とはいえ小普請組四十俵扶持という最下級の身分であり、一家は現今の貨幣価値にして月収7万円程度で暮らしを立てねばならず、武士とはいえ文字も読めない父を助けて、鋳三郎も幼時から内職に励まねばならなかった。
しかしながら鋳三郎の「沈着にして剛毅、人に接して極めて温容」という優れた資質は、親戚や周囲の人々を動かして止まず、そういう人々の経済的援助によって、江原は寺子屋から異例の昌平坂学問所進学を果たす。
その上、当時高名な斉藤弥九郎の「練兵館」における剣術修行にも励み、更には無知蒙昧な友人や父親さえもが忌み嫌っている「蘭学(西洋学)修行」を敢行(断行)した江原鋳三郎は、文久元(1861)年、弱冠19歳にして徳川幕府の士官学校である「講武所」の「砲術世話心得(助教授)」を命じられるまでに栄達した。
江原が14歳で昌平坂学問所(昌平黌)の入学試験に合格し元服した安政3(1856)年、長崎海軍伝習所在勤のまま幕府講武所砲術師範役(教授)に任ぜられたのが、勝麟太郎(勝海舟、34歳)である。
余談ながら勝麟太郎は21歳頃、天凜の資質と猛烈な剣術修行が実って「直新陰流免許皆伝」となり、開明的な師匠・島田虎之助の許しを得て蘭学修行にも励んでいたが、そのこと(蘭学修行)をもって、「洋夷の匂いがする」とか言われ、島田の代理として勤めていた大名屋敷への出張稽古を断られるという悲劇(喜劇?)の体験者でもあった。
本題に戻ると、こういう経歴の江原素六と、同志として「高邁な教育理念」を共有したのが講道館長・嘉納治五郎である。
嘉納治五郎は非職(職務停止)の期間を除いて23年と4ヶ月の長きに亘り、「高師の嘉納か、嘉納の高師か」と言われて、正に天下御免の東京高等師範学校(筑波大学の前身)校長であった。
教育家として嘉納は、三育(徳育、体育、知育)の併進(バランス)を理想として、明治維新以来の日本教育界の「知育偏重の歪み」を正すために、講道館長、東京高等師範学校長(一時は文部省普通学務局長を兼務)、「大日本体育協会(体協)初代会長」、更にはアジア初のIOC委員として、知育と並立し、同じ重みを持つ「体育」の振興に邁進したのである。
そしてついに昭和13(1938)年3月、各国IOC委員との四半世紀にも及ぶ交誼の実績を引っさげ、未だ旅客船全盛の時代に、嘉納治五郎は79歳の老躯をおしてエジプトのカイロにおけるIOC会議に出席する。
ナイル河船上における数度のIOC会合によって、アジア初のオリンピック招致(昭和15年開催予定の東京オリンピック)という大技を極めた嘉納は、アメリカ経由で帰国の途次の5月4日、祖国を目前にして氷川丸船中で肺炎のため急逝、雄大凛然たる生涯を締め括った。
特筆すべきは、起倒流、天神真揚流等、古流柔術を基に「創造的破壊」というプロセスを経て嘉納治五郎が達成したイノベーションは、世紀を超える全地球規模のイノベーションとなったことである。
古流柔術を基にした「世界的イノベーション(技術革新)」の産物である「講道館柔道」は、「格闘技の全く新しいシステム」、「日本発(初)世界標準」として、今や世界190余の国や地域の人々に愛好され、サッカーに次ぐ900万もの競技人口を擁して、「ハジメ」「マテ」「イッポン」「ワザアリ」「ユーコー」等々の日本語は、サッカーの「オフサイド」、ラグビーの「ノックオン」等と同じく世界語となっている。
世界選手権やオリンピックをも視野に入れて、世界中の人々がハジメ、マテの言葉と共に、イッポン、ワザアリを目指して、セオイナゲやオオソトガリ、タイオトシやトモエナゲ等々の練磨に汗を流しているのは、日本人にとって何とも嬉しく、誇らしいことではないか。
正にその「講道館柔道」のみが、日本から輸出された「唯一の世界的スポーツ」であり、日本人に人気のある野球やサッカーばかりでなく、ゴルフやテニス、バレーやバスケット、スキーやスケート、体操、競泳、陸上競技その他ありとあらゆるスポーツは、明治以降、欧米からの「外来文化」として日本に「輸入」されたものである。
ベースボールは明治5(1872)年、東京は第一大学区第一番中学のアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンによって同校生徒に伝えられ、フットボール(蹴球、俗称サッカー)は明治6年、築地の海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)において、イギリス人教官ダグラス海軍少佐らにより余暇訓練の一環として同校生徒に教えられた。
明治7年、海兵第2期生(同期17名)として海軍兵学寮を卒業した山本権兵衛(日露戦争時の海軍大臣、後に内閣総理大臣)も、ダグラス少佐から蹴球を学び、その生来の有り余るエネルギーを発散することが出来たであろうか。
残念ながら、英米に比べては日本の民度は低く、ベースボールから野球という言葉が生まれた(翻訳された)のは明治27年になってからであり、フットボールは長い間、大衆的人気とは縁遠いスポーツにとどまったままであった。
明治15年、嘉納治五郎が東大卒業と同時に講道館を創設した時、「廃藩置県」からは僅か11年、5年前に「西南戦争」が終わったばかりで、近代国家(近代的中央集権国家)として極めてプリミティブな(原始的な)状況にあった明治日本社会(教育界)には、「体育」という言葉さえなく、スポーツという言葉が初めて使用されたのは明治45年頃になってからである。
因みに、専修学校(専修大学の前身、日本で初めて日本語で法律と経済を教えた)、東京法学社(法政大学の前身)、明治法律学校(明治大学の前身)、東京専門学校(早稲田大学の前身)等の学校が創立されたのが、明治13年から明治15年の出来事であった。
そういう時代背景において東大卒業後の数年間、講道館長嘉納治五郎は不眠不休、血のにじむような労苦を物ともせず、自らの恩人勝海舟の二十代を髣髴とさせるような進取的努力を孜々として続けた。
その結果数年にして、東大文学部における恩師フェノロサ教授が、日本人に期待した「東西文明を融合し、より高い文明を創造する」という遠大かつ実現困難な目標を、見事に達成して見せたのが嘉納治五郎である。
嘉納の成功の核心は、物事の本質を捉え、そこから展開、転換するに何のためらいもなく既往を振り捨て、新たな方向に超人的な集中力を発揮したことにあった。
天凜の資質と、恩師フェノロサの薫陶の甲斐あってか、ジョン・スチュアート・ミルが理想とした、多面的で恐れを知らず自由でしかも合理的なバックボーンの形成に成功した嘉納治五郎でなければ、到底為し得ない世紀の大事業が、「講道館柔道」の創製であった
その「講道館柔道」についての自らの抱負に関して嘉納治五郎は、「東西文明の精粋を、わが国性に同化し融和し、醇化の大作業を遂げて、偉大なる新文明を醞醸し創作してこれを世界に弘布することはわが国民の天職とするところである(『青年修養訓』)」と揚言している。
「同化し、融和する」ところまでは常人でも辿れるかもしれないが、「醇化」というプロセス(大作業)を経て、「新文明の醞醸と創作」すなわち「イノベーションの達成」に至る道は、後に詳述するように極めて険しく、しかも高いところまで登らなくてはならない道であったことを見逃してはなるまい。
今、「大規模送電網の構築」その他、「日本発世界標準」の確立を目指して、多くの日本企業が世界を相手に懸命の努力を続けている。
しかしながら、競争相手の欧米企業等の思惑や反発も絡んで、「日本発世界標準」を打ち立てることは至難の業であり、産業界を見渡しても、辛うじて「日本発世界標準」と言い得る存在は、カーボングラファイト(炭素繊維)ぐらいであろうか。
GNP2位とか3位とか言っても、それは「カイゼン」等々の努力によって精度が上がった「自動車」や「家電」等、「組み立て産業の量的な力」を示しているに過ぎないのではないか。
それを考えると、嘉納治五郎の成し遂げたイノベーションは、その独創性において、世界史に残る偉業であると言えよう。
東大文学部第2期生(同期6名)として、政治学、理財学(経済学)を専攻した嘉納治五郎は、明治14年に卒業する。
ところがその政治学、経済学の指導教官であるフェノロサ教授に少なからず傾倒した嘉納は、ハーヴァードでは専ら哲学を専攻したフェノロサの「哲学講義」を受けるために、改めて文学部哲学科に学士入学を果たし、翌明治15年卒業して学習院に奉職した。
巡査の初任月給が6円、小学校平教員のそれが5円の時代に、エリート嘉納治五郎学士の月給は80円であった。
もともと皇室の設置する私塾という位置づけで発足し、文部省ではなく宮内省が所管する学習院は、皇族、華族(公、候、伯、子、男)の子弟ならば原則として無償で入学できる学校であり、当然、平民の入学は限られたまま、昭和20年に至った。
驚くべきことに東大を卒業し学習院に奉職すると同時に、嘉納治五郎は、「ジョン・スチュアート・ミルの思想」と「柔道」とをカリキュラムの中心に据えた英語学校「弘文館」の経営を始めたばかりでなく、親戚や知り合いの子弟を預かり、「柔道」を必修とする寄宿制の家塾「嘉納塾」の運営をも始める。
その上、自ら館長に就任して開設した「講道館」は、入門料も月謝も徴収せず、唯ひたすら「柔道を通じて立派な人を作る」ことを目的とする一切無料、年中無休の教育機関であった。
大学卒業後、堰を切ったように一気にこれらの事業(ベンチャー)をスタートさせた、23歳の嘉納治五郎の剛毅な気迫には驚嘆の念を禁じ得ない。
そして、10年以上、転々と間借りを続けた一切無料の教育機関「講道館」の運営には、エリートとしての月給80円でも足らず、嘉納は翻訳その他、夜なべのアルバイトをして得た金をも注ぎ込みながら、本業の学習院教師の職務を全うして、明治18年には幹事兼教授、翌明治19年には27歳の若さで学習院教授兼教頭に抜擢される。
自ら運営する寄宿制の家塾「嘉納塾」では、10歳代の少年たちと朝夕の食事を共にし、その上、自ら経営する学校「弘文館」においては最も多くの授業を担当して、嘉納治五郎は土曜も日曜も休むことなく、正に不眠不休の生活が数年続いた。
因みに、英語学校「弘文館」の教員として嘉納を助けた東大文学部同期生の坪井九馬三は、後に東京帝国大学文科大学校教授そして学長に就任する。
神田錦町、後には虎ノ門に移った学習院への通勤の途次にあっても、嘉納は突然人力車を止めさせ、車夫を相手に腕を掴んだり襟を取ったりして、脳裏に浮かんだ「わざ」の考究を怠らず、年中無休の講道館においては、西郷四郎や富田常次郎(小説『姿三四郎』の作者富田常雄の父)あるいは山下義韶らを身をもって鍛える日々が続いたのであった。
時は流れて昭和8(1933)年、嘉納治五郎は創業から40年余りを経た講道館柔道の海外普及の実績をふまえ、「昭和八年を迎ふるに当り講道館員一同に一段の奮励を望む」と題した年頭の挨拶を行ったが、その中で嘉納は、「柔道の海外宣伝普及は二つの意味において自分の後半生の任務である」として次のように述べた。

その一は、日本は既往千数百年の間に、諸外国から種々の文化を輸入して、今日の日本文化を建設したのである。
言い換えれば、我が国にも固有の文化はないでもなかったが、今日の燦然たる文化は、外国に負うところが多い。
しかるに、もし日本が自国の文化を外国に与うることがなくば、諸外国と日本の関係は、精神的に債権なくして債務のみを有する国となって、はなはだ遺憾である。
第二は、柔道を諸外国に教えれば、それらの国々における柔道の修行者と、日本人との間に理解と親しみが増し、その結果は、我は彼を信じ、彼も我を信ずるようになり、相互の間に利益の交換も出来、不幸にして紛議の生じた場合においても、円満なる解決をなしやすからしむることになる。

相撲界(角界)には、兄弟子に対する「恩返し」という言葉があるが、嘉納治五郎は講道館柔道という「全く新しい格闘技のシステム」を構築したことによって、スポーツ先進国である西洋諸国に対して「恩返し」をしたことになろう。
嘉納の高邁な見識、創意工夫と類稀な行動力とによって、今や講道館柔道は、「世界的スケールで日本が世界に貢献する唯一のスポーツ」となったからである。
「文化的に、日本が外国に対して債務のみを有する国であることを遺憾とするにとどまらず、債権を有する国でありたい」という言葉は、正に国際人・嘉納治五郎の土性骨から発せられた言葉ではないか。
更に忘れてならないことは、「柔道による人間育成」という教育理念を唱導した嘉納治五郎は、洋の東西を隔て互いに何の交流もなくして、近代オリンピックの始祖クーベルタンと、図らずも同じ土俵の上に立っていたということである。
後述するように、「身体活動を中心とする教育改革」に自らのフランス貴族としての使命を見出したクーベルタン男爵の教育理念と、講道館長にして東京高等師範学校長・嘉納治五郎の教育理念とは、いわば「教育理念(体育理念)の世界標準」とも言えるものであった。
そして明治42(1909)年1月、そのクーベルタンの意を受けた駐日フランス大使ジェラールは、嘉納治五郎を訪問してアジア初のIOC委員となることを要請する。
要請を快諾した嘉納治五郎は、外には体育運動を通じて諸外国と交誼を結び、内にはオリンピック競技会において行われている各種のスポーツを奨励して、日本国民の体力の増進と、「品性の陶冶」を計ろうと決心したという。
オリンピック参加を決意すると同時に、嘉納は日本を代表すべき運動選手の選出母体について思いをめぐらせ、最初は文部省に協力援助を求めた。
ところが当時日本国民の体育活動は依然として極めてプリミティブ(原始的)な状況にあり、文部省自体も意識は低く、動くことはなかった。
既述のように、この時代の日本社会には「スポーツ」という言葉すらなく、「運動競技」は学校間で行われ、野球の場合には、まず「挑戦状」を届けてから双方で話し合って審判員等を決めるという段取りで話は進んだが、場合によっては「格下」として対戦を拒否されることも珍しくなかった。
詳しくは後述(第7章)するが、こういう背景において、明治44(1911)年、嘉納治五郎を援けて大日本体育協会(体協)の結成に漕ぎつけ、総務理事として、初代会長嘉納治五郎を支えたのが大森兵蔵、永井道明、安部磯雄の3名である。
同志社英学校に学び、在学中に校長・新島襄による洗礼を受けて「篤いプロテスタント」となった安部磯雄は、同志社付属尋常中学校教頭を務めていた明治32年5月(34歳)、大隈重信によって東京専門学校講師に嘱任される。
東京専門学校が、その名称を早稲田大学と改めた明治35年、安部磯雄は高等予科長に、「体協」が結成された明治44年には、「早稲田大学校規」「教授会規定」の改正により教授となった。それまで早大においては、全ての教員は講師であり教授という肩書きは無かったのである。
大正9(1920)年、新大学令による早稲田大学認可に伴い、安部磯雄は政治経済学部初代学部長に就任する。
そういう教務とは別に、安部は明治34(1901)年4月、新設された体育部(体育会)の部長に就任、11月3日には自ら野球部を発足させ、明治40年まで野球部長と体育部長を兼任した。
明治43年、間近に迫る第5回オリンピック・ストックホルム大会に向けて、煮え切らない文部省その他既成組織には頼らず、新たな体育団体を結成することを決意した東京高等師範学校長・嘉納治五郎は、早大学長・高田早苗、慶大塾長・鎌田栄吉、東大総長・浜尾新に協力を求めた。
その呼びかけに応じて早稲田を代表し、馳せ参じたのが体育部長安部磯雄である。
6年前の明治38年、安部磯雄は日露両国の命運を賭けてのロジェストヴェンスキー率いるバルチック艦隊と東郷平八郎が率いる連合艦隊との決戦を目前にして、日本スポーツ界では有史以来初めての「外国遠征」という、如何にも破天荒な企て(国際活動)の中心人物となっていた。
バルチック艦隊が日本に向ってマラッカ海峡にさしかかった明治38年4月4日午後、「野球部長兼監督兼マネージャー兼通訳」安部磯雄に引率された「早稲田大学野球部米国遠征団(第一回)」は、横浜港を出港してハワイ経由でサンフランシスコに向ったのである。
この明治38年の「早大野球部アメリカ遠征(第一回)」は、当時日本の幼稚な大学野球技術に「革命」を起こしたばかりでなく、今日の高校野球、社会人野球、プロ野球を興す源流となった。
そしてこの日本近代史における何とも破天荒な企画(国際活動)の中心人物であった安部磯雄は、その後も一貫して学生野球の育成に努め、「早稲田の看板教授」、「日本社会主義運動の父」であるばかりでなく、後述するように「学生野球の父」というよりは、「日本野球の父」と称さるべき存在となったのである。
欧米各国に比べては遅まきながらも、こういう経緯で設立された日本体育協会(体協)初代会長・嘉納治五郎と、初代総務理事の一人である安部磯雄は、「常に世界に目を向け、世界に心を開いていく」という意味での「国際人」であったばかりでなく、「世界に通用する教育理念(体育理念)」を共有していたことを忘れてはなるまい。
敢えて言えば、嘉納治五郎も安部磯雄も、日本社会において21世紀の今日も抜きがたく支配的な「日本的精神構造(日本的メンタリティー)」、即ち「他者(外国人等)が自分たちより優れていることを認め(信じ)たがらない内向きでひ弱な精神構造」とは全く無縁の、「剛毅闊達な精神」の持ち主であった。
その「日本的精神構造」を、あたかも神社の鳥居のように主柱として支えているのが、「権威主義」と「事大主義」とである。
辞書を引くと、権威主義とは「権威をふりかざして他に臨み、また権威に対して盲目的に服従する行動様式。」となっており、事大主義とは「自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度、考え方。」となっている。
ところで安部磯雄は、アメリカはコネティカット州ハートフォード神学校で、テニス部に所属して3年間汗を流した自らの体験に基づいてか、知育中心のドイツの大学には批判的で、理想的な学生生活をオックスフォード、ケンブリッジにおけるカレッジ・ライフ(学寮生活)に求めていた。
そのオックス・ブリッジに至る過程としてのイギリスにおける「パブリック・スクール」の教育は、世界中から「大英帝国の礎石」と称えられ、文政11(1828)年、ラグビー校の校長に就任したトマス・アーノルドは、イギリスが生んだ最も偉大な教育者、近代パブリック・スクールの父と称賛されている。
ラグビー校々長としてのトマス・アーノルドの最終目標は、「イギリス国内にどのような驚天動地の事件が発生しようと、喜んでその渦中に飛び込み、勇気を持ってその解決に当り得る人物、精神界にどのような事件が発生しようと、言論により、英知によって解決し得る人物、そのような、信念ある人物を養成したい」というところにあった。
そういう「イギリス教育」に理想を求めた「日本野球の父」安部磯雄は、早稲田大学野球部長として、「スポーツマンシップとは武士道のことなり」と喝破する。
生涯を通じて、高い人格に基づく大きな感化力を発揮し続けた安部磯雄は、武士道の要諦は、「人の弱みにつけこまないこと」であると指摘し、「知識は学問から人格はスポーツから」というスローガンを高々と掲げて25年間、営々として早大野球部学生の指導に心血を注いだ。
「知識(知性)と人格(徳性)の向上」こそが、「近代市民社会の市民」にとっての最大要件であることは疑いの無いところであり、改めて今、嘉納治五郎、安部磯雄の「世界に通用する教育理念」を検証することは、IT化その他の進展と共に、もはや押し戻しようもないグローバル化の激浪に翻弄される日本国民にとって、資するところ大ではないか。

                                            2013年4月8日

                                                 丸屋武士

 
                            目次


プロローグ(序章)


第1章 国際人・嘉納治五郎と安部磯雄

第1節 国民教育と国民意識あるいは国民思想

第2節 幼稚粗放な日本野球に「革命」


第2章 剛毅闊達な精神


第1節 「学校におけるイジメ」が発端、嘉納治五郎の柔術修行

第2節 下富坂道場落成と武道家嘉納治五郎の完成

第3節 嘉納家と勝海舟

第4節 ホワイトハウスにできた柔道場

第5節 活発な大統領セオドア・ルーズベルト



第3章 日本発(初)グローバルスタンダードの構築
―嘉納治五郎によるイノベーションの意義

第1節 投げ技、固め技、当て技のうち、当て技(当身技)の取扱い

第2節 講道館柔道という「イノベーション(技術革新)」の眼目
       ―嘉納治五郎の創意工夫(創造的破壊)

第3節 近代スポーツ発祥の国イギリスの事情

第4節 戦闘技術の競技化(スポーツ化)―「無用の用」の極致



第4章 「嘉納塾」と「宏文学院」

第1節 三育(徳育、体育、知育)絶妙のバランス、「嘉納塾」

第2節 「宏文学院」院長・嘉納治五郎と「湖南第一師範学校」学生・毛沢東




第5章 日露戦争と早大野球部米国遠征

第1節 有史以来初、破天荒な「国際活動」

第2節 「早大野球部アメリカ遠征(第一回)」の経緯

第3節 早大野球部のおみやげ

第4節 渡米試合の実態と帰国後の活躍



第6章 日本スポーツ界の夜明け

第1節 早大野球部々長 安部磯雄の日常と基本方針

第2節 明治40年代、日本スポーツ界の黎明(その1)

第3節 明治40年代、日本スポーツ界の黎明(その2)

第4節 明治40年代、日本スポーツ界の黎明(その3)



第7章 嘉納治五郎の英断―体協結成とオリンピック初参加


第1節 クーベルタンと嘉納治五郎

第2節 「国際的視野」の根底

第3節 総務理事 大森兵蔵

第4節 総務理事 永井道明

第5節 「黎明の鐘」−嘉納治五郎の決意




第8章 「体協」総務理事・安部磯雄の見識


第1節 スポーツマンシップとは武士道のことなり

第2節 スポーツから得られるもの(その1、健康)

第3節 スポーツから得られるもの(その2、娯楽)

第4節 スポーツから得られるもの(その3、修養)

第5節 国民性あるいは国民思想と国家の威信、真価

第5節―T「内向きでひ弱な精神構造」の克服
第5節―U 歴史の教訓は生きるか


エピローグ(終章)


主要引用参考文献