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「島国根性」脱却―麻布中学校創立者江原素六のケース

麻布学園江原素六記念室にかかる絵を許可を得て携帯電話で撮影

沼津市西熊堂の江原素六先生記念公園(背景は愛鷹山)

キリスト教伝道の地吉原(現富士市吉原)と愛鷹山、手前は東名高
2011年03月05日(土)
道場主 
[静岡県]
富士市、沼津市、

キリスト教伝道の地大宮、中里(現富士宮市)、手前は富士川

上の銅像台座に彫りこまれた「温故知新」の四文字
前回(2011年2月1日付)当コーナーで、その波乱万丈の生涯における10代前半のほんのひとコマを紹介した高橋是清は、初代特許局長、日本銀行総裁、農商務大臣、内閣総理大臣、大蔵大臣等を歴任して日本近代史に巨大な足跡を残したばかりでなく、教育者として、「開成学園中興の祖」とも呼ばれている。
昨今、麻布中学校、武蔵中学校と並んで、中学受験の世界では「男子御三家」とされている開成学園(開成高等学校、開成中学校)は、明治4(1871)年、兵部省造兵司造兵正(ぞうへいのかみ)佐野鼎が在官のまま、神田相生橋(現淡路町)に払い下げを受けた土地に「共立学校(きょうりゅうがっこう)」と命名して設立した学校の後身である。
蛇足ながら付言すると兵部省造兵司は後に小石川砲兵工廠となった。
駿河の国富士郡水戸島村(現富士市)郷士出身の佐野鼎は、江戸に出てオランダ砲術を学び、加賀藩に招かれて西洋砲術師範方棟取役として百五十石で召抱えられた。
高い学識、とりわけ語学力を認められて万延元(1860)年の遣米使節、文久元(1861)年の遣欧使節にも随行した佐野が、欧米のような学校の必要性を痛感し、加賀藩ゆかりの人々の応援を得て設立されたのが共立学校である。
明治4年、太政官より造兵正に任命された佐野は、旧福山藩江戸上屋敷の一部で官有地となっていた4000坪の払い下げを受け、そこに居住すると同時に広い邸内に共立学校を建設したが、旧加賀藩主を中心に社中と呼ばれる18名の共同経営者の中には、加賀藩御用商人茅野茂兵衛や、大倉財閥の祖大倉喜八郎らがいた。
主任深沢要橘と外国人教師とによって同校は一時盛んで、明治7年には当時8歳の山階宮定麿もここに入学した。
山階宮は後にフランス・ブレヒト海軍兵学校を卒業、その後東伏見宮依仁となり、第二艦隊司令長官、海軍大将となった。
しかしながら共立学校はその後、同一種類の学校が他にも出来て生徒数が減り維持が困難になった上に、明治10年には佐野鼎がコレラで急死し廃校同然になってしまった。
それを明治11(1878)年、高橋是清(24歳)が下宿のオーナーである茅野茂兵衛の勧めで再興することになったのである。
佐野鼎の娘婿伊藤祐之が経営者として「校主」となり、校長役の高橋は大学予備門の同僚鈴木知雄らの協力を得て大車輪の学校経営に乗り出した。
高橋が打ち出した「改正共立学校諸規則第一条」は次のように規定した。

「本校ハ専ラ他日東京大学予備門ニ入ラント欲スル者ノ為ニ必要ナル学科ヲ教授スル所トスル」

このように明快な経営方針を以って再開された共立学校には志望者が多く、「予備門」の入学試験における合格率がトップになったとか、現今(1982年〜2010年)29年間連続して、東大合格者数第一位を誇る開成の伝統は、ここにルーツがあるのかも知れない。
時は移り、高橋是清は明治22年、初代特許局長の職を辞して銀鉱山を経営する為に、南米ペルーに渡航することになった。
いかにも唐突な話であるが、明治期殖産興業政策の実践者である前田正名らの説得に心を動かされたとも言われている。
高橋は出発に先立って開催された学校主催の送別会において、共立学校全学の教師生徒に対し大要次のような所信を述べたという。

『学問の道は自身固有の霊能を研磨発達せしめ、小にしては一身一家の利益より、大は社会の利益を興さんとするに外ならず、この目的を達することは皆、学問によるのである。
この意味で、社会や世界は大学校である。
若しこの目的を見失えば如何に立派な学校に学ぶとも、それは何の益にもならない。
近来、学問を教える者も、教えられる者もこの学問の本旨を見失い、先人の得た知識を模倣して能事終われリとしている、誤てるも甚だしい。
学問する要は、自習自得、思考力を働かせ、確実に知識を身につけて、是を実際に活用するにある。
教師は学問をする案内者の如きもので、生徒はその補導に従って学問を習得、理解し、自らその発達の具合を会得するのであって、生徒が自ら工夫努力を怠り、教師もまた、生徒に単に知識を注入し、之を暗記せしめ、又は技術を模倣することを教えて、生徒が自ら思考力を働かすことに意を用いないならば、たとえ、万巻の書をひもとき、千百の知識を獲得しても、それ等は皆死灰に等しく、何等の益にも立たないであろう』

話は前後し、余談でもあるが、学問、教育についてのこのような理念の基に共立学校を運営していた高橋是清は、明治14(1881)年、27歳で文部省に出仕、1ヶ月後には農商務省に異動して発明専売、商標登録保証に関する業務に没頭する。
当時の実業界は商標と暖簾を混同する程度のレベルの低い認識水準にあって、高橋らの苦労も多かったが、明治17年10月1日、ようやく商標条例発布の運びとなった。
次いで高橋らは商標条例附追加案を作成して明治18年1月、参事院との会議が開かれたが、
そこに明治天皇が出席し、高橋は天皇の前で大声を揚げて説明したという。
そして明治15年頃まで、精力絶倫の高橋は農商務省と兼務で共立学校や大学予備門で「英語教師」として教鞭をとる傍ら、各種文書(議案や洋書)の翻訳に多忙を極め、従って収入も豊かであった。
文部省翻訳局長西村茂樹(明六社の一員)にも可愛がられて、アメリカ合衆国の歴史や経済書などの翻訳も依頼されたようである。
面白いのは、新古典派経済学を代表し、ケインズやピグーを育てた経済学者アルフレッド・マーシャルの『エコノミックス・オブ・インダストリー』翻訳に関する内訳話である。
文部省からその本を受け取った高橋は、忙しすぎてそれを5、6頁翻訳しただけで残りは全て当時貧窮していた東大生、日置益(ひおきます)と吉田佐吉に任せたという。
日置益は東大卒業後外務省に入り、後に清国駐在公使として、「対支21か条要求」の交渉担当者になったことで有名である。
その後マーシャルから、その著作の日本語への翻訳に対して高橋是清に懇篤な礼状が来て、それを高橋は長く保持していたという。
明治22年、高橋のペルー渡航に際して共立学校が開催した送別会において、
前述したような「学問と教育に関する理念」を全学の教師生徒に披瀝した「開成学園中興の祖」高橋是清(35歳)は、ペルーにおける銀鉱山経営には見事に失敗して失意のうちに帰国する。
その後、渡航を勧めた周囲の関係者らの奔走もあって、日本銀行総裁川田小一郎に拾われた高橋は、日銀の設備担当者(建築所事務主任)という位置から再出発して、ついには日銀総裁に登りつめたのである。
高橋を拾った第三代日銀総裁川田小一郎は、大蔵大臣渡辺国武を自邸に呼びつける程、その権勢は絶大で、株主総会の日以外には出勤せず、後(戦後)の一万田尚登などとは桁の違う「日銀の法王」であった。
高橋が南米へ向けて去った後、共立学校の校長に就任したのは共立学校再発足以来、高橋を助けてきた鈴木知雄であり、鈴木は後に日本銀行出納局長に任命される。
慶応3(1867)年、13歳の高橋是清は才幹を認められて、その鈴木知雄と共に仙台藩の将来を担う青年として、二人してアメリカに派遣されたのであった。
そして、高橋是清が並外れたその才幹を発揮したのは、彼が日銀副総裁の時勃発した日露戦争においてである。
明治37年2月10日、ロシアに対して「宣戦布告」がなされ、2週間後の2月24日、日銀副総裁高橋是清は随行員深井英吾(後に日銀総裁)と共に横浜からアメリカ商船サイベリア号に乗り込みアメリカに向かったが、同船には同じく重要使命を帯びた金子堅太郎が、随行員(外務省職員)阪井徳太郎、鈴木純一郎と共に乗り込んでいた。
開戦直前、明治36年の国家予算、厳密に言えば一般会計歳入は2億6千万円、
日露戦争の戦費総額は18億2629万円であったが、高橋が英米で6次の外債発行によって調達した金額は、何と13億円弱というものであった。
米英両国における外債調達交渉において発揮された、そのとてつもない才幹の根底には、10歳頃入門したヘボン塾以来、鍛え上げてきた「英語力」もあったことは明白である。
ヘボン門下生として一番若くして英語の勉強をスタートした高橋の、発音もイントネーションも、ネイティブに近いものであったことは間違いあるまい。
さて、愈々ここで目を転じて「開成」と並ぶもう一方の雄、「麻布中学校」の校長を死ぬまで続けた江原素六の先駆的、献身的でありながら、あくまで現実的な生き様と、教育、政治に対する高邁且つ雄勁なその見識とに、今改めて注目してみたい。
高橋是清が廃校同然の共立学校を再生させたのと符節を合わせるように、江原素六は、カナダ・メソジスト教会のミッションスクールとして設立された東洋英和学校幹事という立場から、明治28年同校内に麻布中学校を創立した。
麻布中学校創立前後の事情についての説明は、敢えて省略する。
その後江原は、廃校と決まった東洋英和学校とは別に、明治33(1900)年、現在地に麻布中学校専用の校舎建築に着手し、生涯、その麻布中学校校長を勤め続けた。
そして麻布の専用校舎建設が始まった明治33年の9月15日、
伊藤博文を初代総裁として結成された立憲政友会は、翌々明治35(1902)年1月、
その機関紙『政友』第16号誌上に、「教育方針大綱九ヶ条」を発表した。
それは、麻布中学校校長であり、政友会教育調査局委員長としての江原素六の所信をそのまま反映した次のようなものであった。


第一に教育の方針は保守排外思想を排除したものでなければならない。「国民として己の国家を尊重するは言うまでもなきことながら、ただ固陋の考えから己を尊び他を卑しみ、外人といえばこれを軽蔑するようなことは、自尊ではなく自傲である。」

第二に国民教育は国家の基礎であり、義務教育をすすめ、立憲国民の精神を涵養しなければならない。国民教育は「国家の基礎であるが故に、貧富を問わず男女の別なく、皆之を修せしめねばならない。・・・現今の教育を見るに封建時代の旧思想、専制時代の旧精神なお未だ全く抜けず、立憲国民の精神を涵養するという点において大いに欠くる所あるを見る。」

第三に徳育を重視しなければならない。ただし徳育を文部省検定の修身書や倫理書をもって束縛してはならない。

第四に知育の内容は実用的なものでなければならない。

第五に体育は国家の元気に関するものであり、男女ともこれを奨励すべきである。「男子の体育のみ進歩しても女子の体育またこれにともなはずんば将来子孫の強壮を望むべからず。」

第六に各種の実用教育の普及を奨励すべきである。

第七に大学のように学理の蘊奥を研究する高等の学校においては思想の自由を制限してはならない。

第八に信教の自由は帝国憲法の明示するところであり、学校においてこれに干渉してはならない。

第九に学校の待遇においては公立と私立とを差別してはならない。


時代を超越した江原素六の高邁、雄勁な見識に接して、粛然とするのは筆者ばかりではないと思います。
第1条から第9条まで、発表から108年経った今日、日本社会(教育界)の現状は、これらの目標(課題)の多くを克服(解決)していないこと明白ではないか。
とりわけ、「封建時代の旧思想、専制時代の旧精神なお未だ全く抜けていない国民精神のありよう」、換言すれば「日本国民の精神構造」については、当コーナーや「卓話室」でも再三に亘って指摘しました。
この「政友会教育方針大綱九ヶ条」が発表された1年半前の明治33(1900)年9月、
前述した伊藤博文を初代総裁とする立憲政友会(略称政友会)の発足に際して、江原素六は、
星亨、松田正久、尾崎行雄、金子堅太郎、伊藤巳代治、西園寺公望、渡辺国武、大岡育造、片岡健吉、元田肇、原敬らと共に名を連ねた「明治政界における重鎮」の一人であった。
政友会発足の2年前、明治31(1898)年3月行われた衆議院臨時総選挙(第5回)に、江原は静岡県第七区より立候補し第1回衆議院選挙(明治23年)に同選挙区から立候補して以来、連続して5回目の当選を果たしている。
その明治31年5月には、第十二議会の予算委員長に就任、中島信行、片岡健吉、松田正久、杉田定一と共に所属する自由党政務委員に名を連ね、
6月、自由、進歩両党合同による憲政会発足に際しては党大会座長を務め、
憲政党内閣(板隈内閣)の外務大臣に擬せられ、文部大臣に推されたが、これを固辞した。
5年後の明治36(1903)年3月、衆議院臨時総選挙(第8回)に江原素六は東京市より二度目の立候補をして、通算7回目の当選を果たし、政友会協議員となる。
同年4月2日、麻布中学校は財団法人として発足し、これを機に学園の負債を整理して債権化した。
そして財団法人化された麻布中学校の卒業式(第8回)が明治36年4月11日挙行され、
祝辞として江原は、「人間はTO DOよりTO BEに重きをおかねばなりません」と述べ、
卒業生総代として後に国鉄総裁に就任した石田礼助が答辞を朗読した。
敢えて付言すれば、石田礼助は麻布を経て東京高等商業(現一橋大学)を卒業、三井物産に入社して昭和14年社長に就任、昭和16年退職する。
戦後の昭和38年、財界人としては異例の国鉄総裁(第5代)に就任した石田は、
「公職は奉仕すべきもの、したがって総裁報酬を返上する」と宣言した。
国鉄総裁として国会に初登院した際、「粗にして野だが卑ではない」と自らを語り、
「国鉄が今日のような状態になったのは諸君(国会議員)たちにも責任がある」と発言した。
話を本題に戻すと、明治37年5月第18議会が召集され、江原素六は衆議院議長に推されるが、またもや、これも固辞したという。
時代は下って大正8(1917)年、東京女子大学の創立に際し、
当時東京基督教青年会会長の長尾半平と新渡戸稲造が二人で江原素六を訪ね、
同大学校長への就任を懇請した。
これに対して江原素六は「自分は、切腹の仕方なら多少心得ているから、腹を切れとの仰せなら、万が一にもお引き受け申さぬものでもないが、自分にとって柄でもない大学の校長になれとのお勧めに対しては、断固としてお引き受けできない」と申し出を固辞する。
周知のようにその東京女子大学初代校長(学長)には新渡戸稲造が就任した。
また、政友会が麻布を大隈重信の早稲田に対抗する大学に発展させようという野心を示した時にも、江原素六はそれを拒絶している。
明治44(1911)年4月2日、江原は貴族院議員に勅撰され、同年6月1日、麻布中学校において江原素六古希祝賀会が開催された。
発起人は、前回当コーナーで言及した益田孝と渋沢栄一であり、渋沢は祝辞の中で、
「顔淵は先生の如く政治界に雄飛しなかったが、先生は政治にたずさわり、
政党員になりながら、なおよく顔淵の徳行をならわれた。
これが常人の企て及ばないところである」と江原を賞讃した。
顔淵(顔回)とは、孔門十哲の一人で随一の秀才。名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた人物である。
その暮らしぶりも極めて質素で、孔子から後継者と見なされていた顔淵が早世した時の孔子の落胆は激しく、「ああ、天、我を滅ぼせり」と慨嘆したことで有名である。
この江原素六古希祝賀会基金として三井家総代・男爵三井八郎右衛門の1000円を筆頭に380余名によって4800円が集まった。
4800円は公正証書にして江原に贈呈されたが、江原はこれに自らの200円を加えて5000円とし、講堂建築費用として麻布中学校に寄付したという。
長い間、麻布鳥居坂の旧東洋英和学校寄宿舎に起居した江原素六は、いみじくも渋沢栄一がなぞらえた顔淵もかくやというべき極めて質素な、次のような日常生活に徹していた。
毎朝、夏冬にかかわらず5時に起床、それから祈祷と聖書の黙読、次いで用件の手紙の執筆、それが終わるとその日の新聞に目を通し、寄宿舎の塾生と共に朝食をとる。
それから歩いて麻布中学校へ登校し、授業前15分を割いて、即ち8時15分前にバイブルの講話をするが、如何なる事情があってもこれを怠ることはなかった。
蛇足ながらこのバイブル講座は必修授業ではなく、関心ある生徒が自主的に参加するものである。
江原が受け持つ月曜日から金曜日までの必修授業としての修身講話は毎日一時間ずつ、この時間を一日たりとも欠かすような事は無かったという。
その間、教師たちの報告を聞き、諸般の指示を与え、面会者に接し、11時頃いったん寄宿舎へ戻る。
そして改めてお抱えの人力車で外出するが、外出先は芝の政友会本部やYMCA、種々の演説会、開会中ならば国会議事堂等々で、大抵夕方明るい中に帰宅する。
帰りが早い時は、寄宿舎の応接間で学生を相手の雑談や来客の応対をし、夕食前に坂を降りてよく学生と共に麻布十番の銭湯へ行った。
江原は時に、「怒りを発しそうな時はお湯に入ると良い」と、若い人々に具体的な助言までするようなところがあったとか。
夕食後6時頃からのバイブルクラスには必ず出席して、塾生一同と共に外人宣教師の話を聞き、
終わると二階の自室で読書や調べものに没頭、十時就寝というのが普通の日課である。
明治42年7月、江原は長年東京での宿舎として来た鳥居坂の旧東洋英和学校寄宿舎を出て、麻布中学校により近い天真寺の一隅を借りて宿舎とし、その後2回転居するが、いずれの場合も麻布中学校と至近の借家住まいであった。
そういう江原素六が、日露戦争直前の明治36(1903)年、『青年と国家』と題する著作を出版し、その緒論において、日本社会に対する次のような危機感を表明した。

「わが国の現実社会をよくよく考えてみると、政治、宗教、教育、文学、実業などあらゆる社会を通じて、沈滞腐敗の極点に達し、政治家には常操なく、宗教家には徳行なく、
教育家には定見なく、文学家および実業家には理性と根気がない、
そうでなくてさえ貧富の懸隔はなはだしく、富者は富に驕り、貧者は貧に苦しみ、
世の中で人の守るべき道も危機に瀕しており、人の心もすさんでいる。」

何故そんな国になってしまったのか、江原は同じく同書において次のように喝破した。

「維新後の開化により文運が興隆して以来、わが国の教育方針はまったく知育に偏し、体育は無視されるようになった。
その結果はどうかと言えば、わが国民は、神経的狂人となり、神経が高まれば一時的に取り組み、それが冷めればやめるという具合である。
気長く事に従事し、これを完成させるということがない。
このため偉大な事業はことごとく欧米に占有され、彼らを羨むだけである。
熱中しやすく冷めやすい性格は、病的なまでに国民性の中に浸潤しているが、
青年においては、比較的その影響が薄い。
青年諸氏は、たとえ知的には愚鈍だとしても、その体質を健全にし、その精神を健全にし、
普通の判断力を養い、事の大小を問わず、進取的に、忍耐的にその効果があらわれるまで孜々として努めることが必要である。」

「国民性」あるいは「国民精神のありよう」というものが如何に深刻かつ重大な問題であるか、
2011年の今、江原のこの言を聞いて改めて認識せざるを得ない。
江原も指摘する、熱しやすく冷めやすい国民性は、対外的困難に直面して容易に激高し、排外的ナショナリズムに酩酊する道にも直結している。
そういう傾向に対して、江原はまた次のように警告した。

「その大和魂にして漢洋の長所を容れるだけの度量なく、自らを尊び外を卑しめ、
いたずらに対外硬を以って是なりとすれば、
その大和魂は狭隘にしてその愛国心は固陋に陥るべし。
余の事規純然たる鎖港主義の世に生まれ鎖港主義の中に成長せしものと異なり、
今後世に立ち事を処せんとする者は、いたずらに小敵愾心にのみ相馳せ局量偏小に陥ることなく、大いにその度量を養わざるべからず。
いわゆる過激の言論は一聞して甚だ愉快に聞こえ、匹夫の望を得るに足れりといえども、
多くは永遠の成功を奏せしものなし。」

こう警告した江原素六は徳川幕府瓦解の時(26歳)、幕府陸軍撤兵隊副隊長(少佐)であった。
江原素六(幼名鋳三郎)の父、江原源吾は勝海舟の父勝小吉と同じく、
幕臣とはいえ、小普請組四十俵扶持という最下級の身分であり、
一家は現今の貨幣価値にして月収7万円程度で暮らしを立てねばならず、
武士とはいえ文字も読めない父を助けて、鋳三郎も幼時から内職に励まねばならなかった。
しかしながら、鋳三郎の「沈着にして剛毅、人に接して極めて温容(15歳の若さで幕府外国方に勤務していた益田孝が連絡に来た江原に出会った時の印象)」という優れた資質は、親戚や周囲の人々を動かして止まなかった。
親戚や周囲の経済的援助によって、寺子屋から昌平坂学問所へ進み、高名な斉藤弥九郎の錬兵館における剣術修行を並行させ、さらには親や友人が唾棄する蘭学修行をも敢行した鋳三郎は、弱冠19歳にして、徳川幕府の士官学校である講武所の砲術世話心得を命じられるまでに栄達した。
慶応元(1865)年5月、長州征伐の先発隊として大坂に向かった23歳の江原鋳三郎は、
以後、第2回長州征伐、そして「鳥羽伏見の戦」へと三度の上洛を命じられた。
三度の出征に戦闘行動はなかったが、「撤兵隊」隊長として加わった鳥羽伏見の戦から退陣の際、
江原の隊は泉州堺で土佐藩兵から猛烈な銃撃を受けて紀州路を命からがら逃亡した。
この時、新政府(薩長藩閥政府)を恐れて戦々恐々の紀州藩からせしめた大金で江原は千石船を雇い、海路無事に部下と共に江戸に帰還することが出来た。
「幕末紛擾」が頂点に達しつつあった江戸で、明敏な江原は、「崩壊しつつある徳川幕藩体制」の限界を、とうに悟っていたに違いあるまい。
しかしながら、副隊長として江原が所属する撤兵隊には官軍に対する徹底抗戦を叫ぶものが多く、隊長福田八郎右衛門に従って千葉で抗戦する撤兵隊を追って、江原も「市川・船橋戦争」に巻き込まれる。
そこで官軍の巨漢兵士に組み敷かれ、馬乗りになった相手の短刀の柄を下から素手で必死に防いでいるところを部下の古河善助(後の陸軍中将古河宣譽)に救われ、辛うじて敵の刃は逃れた。
ところが息つぐ間もなく、官軍の銃撃によって左足に3発の弾丸を受けて動けなくなってしまう。
戸板に乗せられ民家に運ばれて1ヶ月、市川周辺に潜伏して傷を癒した江原は、密かに江戸に戻り、「指名手配のお尋ね者」としての潜伏生活をしながら、自分を江原家から除籍して弟義次に家督を譲っている。
慶応4(1868)年閏4月29日、6歳の田安亀之助が徳川宗家を継ぎ徳川家達となり、5月、取り潰すには大きすぎる徳川家は駿河府中藩70万石に移封された。
8月15日、家達は駿府に入り、慶喜はそれより早く同地に到着、幕臣は朝臣になるか帰農するか、無禄移住するか、三つに一つの選択を迫られていたのであった。
朝臣となって明治新政府に仕える道は希望者が多く、従って競争も激しかったが、
結局5000人が明治新政府に採用された。
福沢諭吉の言う「痩せ我慢」なんていう、非現実的な行動を取ろうとする者は稀であった。
帰農の道を望むものはなお少なく、一番多かったのは無禄移住者で、駿遠だけで1万3千人以上に及んだという。
明治元(1868)年8月、駿河府中藩(徳川藩)は300両でアメリカ商船第一ニューヨーク号を賃借りした。
8月19日、乗船名簿に小野三介と変名を記入した江原鋳三郎が無禄移住組に紛れて乗り込んだチャーター船第一ニューヨーク号は、品川沖から2日半をかけて清水港に到着する。
同船には、徳川藩士と家族で2千5百人を越える人々が詰め込まれ、混雑と船酔いの中で死人も出たという。
この時期の無禄移住者は約1万人として、家族を含めて4万前後の老若男女が、陸路海路から駿河遠江二国に流れ着いたことになる。
藩庁の指示で、これら難民のような人々は行き先を沼津、田中(現藤枝市)、横須賀(現掛川市大須賀)の三つのグループに分けられ、江原は親戚がいる田中に向かった。
ところが明治政府は無禄移住組に紛れ込んで江原鋳三郎が駿河に潜伏していることをつきとめ、
その拘束と身柄引き渡しを藩庁に要求してきた。
藩庁に江原を捕縛する意思はなく、自首を勧める者はあっても江原に自首する意志はなかった。
明治新政府への忠誠はこの時期、徳川藩にとっての「公式姿勢(政治姿勢)」であり、
お尋ね者の江原らを、徳川藩にとっての厄介者あるいは危険因子のように見る空気が瀰漫していたことは想像に難くない。
結局、江原は藤枝を出て沼津の近く、現在の駿東郡長泉町に落ち着き、土地の豪農大沼、長倉といった家にかくまわれた。
当時、同地では江原のような境遇の者は「おとまりさん」と呼ばれていたという。
大沼家にいたころは、水野泡三郎という実にしゃれた名前を名乗っていた江原鋳三郎に、
明治元年閏10月(1868年9月8日)、藩庁から出頭命令が来た。
そこで自らの指名手配が解かれたことを知らされると同時に、
江原鋳三郎は徳川藩陸軍御用重立取扱に任命され、阿部邦之助(阿部潜)と共に、
「徳川家兵学校」設立準備に取り掛ることになった。
明治元年12月、西周助(西周)を頭取として、沼津兵学校と同付属小学校がついに発足にこぎつけ、江原と阿部の努力は順調なスタートを切った。
沼津兵学校校長西周は、かって徳川幕府留学生として4年間オランダに滞在、ライデン大学等において法律や哲学、経済学等を学んだ。
フィロソフィーを「哲学」、サイエンスを「科学」と翻訳したのは西であり、帰納、演繹も西の造った日本語であるとか。
明治日本の近代化において文系の西と共に、技術系の榎本武揚、赤松大三郎(則悦)、林研海(医家)らも4年間のオランダ留学の成果を存分に発揮し、さすが徳川幕府選り抜きの人材であることを証明した。
翌明治2年、江原は西熊堂村(現沼津市)に居を構え、両親を引き取り、名を鋳三郎から素六と改めた。
驚嘆すべきは、その沼津兵学校の教育過程(カリキュラム)の近代性である。
予備課程として付属小学校を置き、それを終了した者の中から資業生を選抜した。
兵学校生徒には四つの種別があり、資業生(修行年限は4年、年齢は14〜18歳))は藩士及びその子弟の小学校修了者で第一試に合格した者。
本業生は資業生の過程を終了し、第二試に合格した者で修行年限は3年。
得業生は、本業生の過程を終了し、第三試に合格した者で陸軍士官の資格を得られる。
員外生は、軍人をめざさず、専ら洋学や数学を学ぼうとする者。
以上四つの過程の中で資業生の段階では外国語は英仏の内から一つを選択する決まりであった。
会話、文法はおろか、万国地理、万国史、経済、窮理、天文を、英語かフランス語、どちらかによって学ばせていたのである。
数学では代数と立体を含む幾何学が課されていたという。
そして何よりもすばらしいのは、この沼津兵学校の教育理念であり、
それは設立に当った江原素六と阿部邦之助の積年の思いがこもった、当時の民度とはかけ離れて次元の高いものであった。
その教育理念の根幹には、江原が弱冠19歳で砲術世話心得として教鞭をとった旧幕臣の士官学校である幕府講武所が軍事技術だけの教育であったため、政治経済や国際情勢に関する教養を備えた人材を生み出せなかったという、痛切な反省があった。
そこで新生沼津兵学校では、軍人以外の者も入学させ、単に軍事技術に止まらない近代的な学問を総合的にほどこすことを目指したのである。
江原、阿部共有の高邁な教育理念に基づき、幕府の遺産を集約した蔵書、機器、設備は当時の最高水準にあり、西周以下、望み得る最高の教師陣を擁した沼津兵学校は当時考えられる最高水準の近代的学校であった。
ところが、翌々明治3(1870)年11月、明治政府は全国13の大藩に対して欧米視察のために2名の人員を選出するよう命じてきた。岩倉使節団渡欧のちょうど1年前である。
静岡藩からは江原素六と相原安次郎が選ばれ、一行38名は明治4年4月あるいは5月、アメリカ商船で横浜を出帆、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンを訪れた。
団員の多くはその後アメリカからイギリス、フランスを歴訪したが、当時29歳の江原素六は英語力も乏しく、いたずらに東奔西走する無駄を避けてアメリカに止まり、余った旅費で、書籍、器械、商品見本を購入して明治4年末には帰国した。
当時沼津兵学校生徒であった島田三郎(後に衆議院議長)は、帰国した江原からチェンバーの『エンサイクロぺディア』を贈られたという。
江原が外遊していた半年の間も国内情勢は激しく変転し、明治2年藩籍奉還によって駿河府中藩(徳川藩)は静岡藩になっていたが、今度は廃藩置県によって静岡県となり、明治5年1月、江原素六は差免され、兵部省の管轄となった沼津兵学校は、東京の兵部省兵学寮に吸収され陸軍士官学校の源流となって、資業生63名は東京へ去った。
落胆することなく、江原素六は翌明治6年1月8日、前年公布された「学制」に基づき、沼津兵学校付属小学校に残っていた生徒と、新しい希望者とを合わせて公立小学校「集成舎」を発足させ、
同時に、県庁によって1月12日、江原は駿東、富士二郡の学区取締に任命された。
その後県内の他の2校と共に集成舎に師範研修所を設置するよう県から指示を受け、
明治8年3月15日、結局三つの師範研修所が合併する形で「静岡師範学校」が設置され、
江原が初代校長に任命された。
その静岡師範学校開校式に於ける校長式辞の中で江原素六(32歳)は、次のように喝破した。

「天下の治平は一大善行の凝、全国の独立は一人独立の積にして、よくその独立する所以のものは何ぞや、学を勤め芸に遊びもって知識を闡明するによらざるなし」

同じ頃、「一身独立して一国独立す」と説いた福沢諭吉と共通する信念である。
息をつく間もなく明治8年11月、江原は集成舎管理者として、
駿東、富士二郡の正副区長を沼津に招集して中学校設立を協議、
翌明治9年1月、静岡師範学校校長を辞して沼津中学校を開校し自ら校長に就任した。
洋風石造二階建の校舎、寄宿舎、外人教師のための洋風住宅を擁する沼津中学校は、
まさに、この地域の文明開化を象徴する存在であった。
校長江原素六の創意によって同校では毎朝次のような光景が繰り広げられた。

英国人教師がWhy do you come here? と質問すると、生徒は異口同音に
To seek for wisdom and understanding, we hope by industry and perseverance to become an
ornament of this great Empire and to be distinguished as learned men.と答えたという。

明治12年12月、江原素六は駿東郡長に任命されると共に沼津中学校校長を兼務したが、
明治14年6月、駿東郡長を辞任、9月以降は沼津中学校校長職に専念した。
好事魔多し。
駿東郡長としてあるいは沼津中学校校長として八面六臂の活躍をする精力絶倫の江原素六は、
同時に、士族授産、殖産興業を標榜して幾つもの事業を手がけていた。
明治4年、前述したように十三大藩使節団に静岡藩を代表して参加した江原が、アメリカで重点的に視察した分野は教育と産業であった。
この視察によって、「富国強兵の基礎は経済と教育である」とする江原素六終生の信念は、
愈々確固たる確信となり、帰国後江原は前述の教育活動の傍ら海運業、製靴業、牧畜業、製茶輸出業等々を矢継ぎ早に手がけたのであった。
その中で明治9年、江原が沼津近辺の商人や農民たちと製茶輸出を目的として設立した「積信社」は、明治12年来日したアメリカのグラント元大統領夫妻の訪問先ともなって、順調な業績を挙げていたが、明治14年頃から赤字に陥り、明治16年、5万円の負債を残して倒産した。
明治14年の秋、これらの問題で疲労困憊した江原素六は持病の結核を悪化させ、重態に陥った。
生死の境を彷徨う中で江原は、「もはや我生きるにあらず、キリスト我にありて生きるなり」というパウロの言葉に導かれ、一身を神に委ねる決意をしたという。
これに先立つ明治10年1月15日、沼津中学校に英語教師として赴任したカナダ・メソジスト教会の宣教師ミーチャムによって江原素六は洗礼を受けていたのであった。
沼津教会の信徒たちも江原の為に祈ったという。
間もなく江原は大量の血を吐いたが、その血と共に結核菌も一緒に吐き出されたような感じで、
病状は急速に回復に向かった。
この後、江原(39歳)は沼津教会の橋本睦之牧師から再度の洗礼を受け、沼津中学校校長など一切の公職を辞して、明治14年暮れ、吉原の講義所で自炊生活をしながらキリスト教の伝道に専心した。
病もようやく癒えた明治21(1888)年1月初めの江原の日記には次のように記されている。

1月1日 吉原伝道。聴衆8人。
1月2日 中里村伝道。聴衆13人。
1月4日 吉原伝道。聴衆13人。
1月12日 大宮伝道。聴衆15人。
1月13日 大宮婦人会で演説。聴衆25人。
1月14日 中里伝道。聴衆13人。
1月15日 中里に日曜学校を開設。
1月18日 吉原伝道。聴衆9人。

吉原とは、東京の吉原ではなく、現富士市吉原であり、大宮、中里は現富士宮市内の地名である。
「積信社」の事業によって、死の淵を彷徨うような痛手を負った江原素六ではあったが、
士族授産を目的として江原が主導した事業は、実に画期的、先駆的な事業ばかりであった。
その中で最も成功した士族授産は、愛鷹山(あしたかやま)山麓の開墾と牧畜業である。
牧畜業を始めるに当って江原とその同調者が県庁に提出した「趣意書」の中で、
東照神君が源平以来の乱世に終止符を打ち昌平の大事業を始めたと筆を起こし、
それに従ってきた我らが同族は、その中で武官、文官として重要な職務を遂行してきたので、
その名も貴ばれ、ついに士族は、農工商の遥か上位に位置づけられるようになった、と述べる。
こういう言い方は、徳川家の家臣集積地である静岡の県庁に提出する陳情書としては、当然の配慮である。
しかし維新によって士族は解体されるに至り、様々な非難を浴びている。
それは士族が果たしてきた役割を顧みない暴論ではあるが、
士族の側にも過失がないわけではない。
「すなわち概ね怠惰姑息にして独立自尊の策を構ぜず、いたずらに家禄を座食するもの甚だ多し」という状態だったからだ、と江原らは士族に自戒を求めた。
その上で、士族授産の方法として、強壮な者は農業に従事し不毛の土地を開き、桑や茶を栽培し、以って公私の利益をはかり、同時に、幼弱な者は文字を習い教育に従事するべし、と説いた。
この趣意書の趣旨と、江原らの説得は静岡県権参事・長澤常山の賛同を得て、愛鷹山山麓の土地使用の許可が下りることになったのである。
明治5年10月、駿東郡元長窪その他三か村と富士郡万野原新田(現富士宮市万野原新田)に定住した旧幕臣250人を対象とし、静岡県から借りた1万4千円を資金として、牧牛社・混合農社という結社が誕生した。
同社は早速、県から土地使用の許可が下りた愛鷹山山麓の土地を開墾して、桑や茶を栽培する。
並行して牧羊、牧牛、養豚業を経営して、そこで出る堆肥を肥料として桑畑、茶畑に提供するという一石二鳥の作戦であった。
明治7年5月には東熊堂村に牛と羊の放牧場が出来、その後家畜が伝染病に見舞われる等の挫折も経験したが、明治10年には本社と畜舎が新築され、東京における「勧業博覧会」に出品した牛が優等賞を獲得するまでに至った。
ところが、牛肉を食べ、ミルクを飲む習慣は未だ確立していないこの時、江原は明治新政府から次のような「お達し」を喰らってしまった。

「牧畜業は外夷の悪習慣を奨励し、国体に背くものであるから中止を命ずる」

愛鷹山山麓は元来、地元農民の入会地として利用されていたが、明治4(1874)年以来、官有林となり、農民の入会権は無視された。
そこで江藤浩造ら地元有力者は官有林拝借願いを提出して、江原素六に中央政府への工作を依頼し、江原自身も愛鷹山麓で前述したような事業を起こした人物であるから、払い下げ運動には献身的に取り組んだ。
時は移り、明治17年江原とも懇意の間柄である板垣退助が自由党を解党して以来、停滞していた自由民権運動が明治23年(1890)年の国会開設を目指して高まりを見せてきた。
これに対して、江藤浩造、長倉計吉ら沼津周辺の名望家たちは、江原素六をその国会に押し出す態勢作りに掛かったのである。
衆議院議員選挙法では、直接国税納入額15円以上ないと被選挙権がなかった。
こうした制限を設けた背景の一つは、貧乏な不平士族を選挙から排除することであったが、
江藤ら沼津の有力者は自分たちの土地を江原素六に提供して、年額15円納税の被選挙資格を獲得させる。
もう一つの障害として、伝道師など宗教職にある者には被選挙資格が無かったが、
これには正に「神の思し召し」か、格好の「抜け道(バイパス)」があった。
当時東京は麻布鳥居坂にあったカナダ・メソジストのミッション・スクール、東洋英和学校の経営建て直しのために、明治22(1889)年6月、江原素六は同校幹事の職に就いていたのである。
最初に沼津で江原に洗礼を受けさせた宣教師ミーチャムらの推挽あってのことであった。
明治23年7月1日から3日に亘って行われた第一回衆議院選挙に、
静岡県第七区(駿東郡と伊豆四郡)から立候補した江原素六は大差で当選した。
以後、明治25年2月、27年3月、9月、31年3月と、5回の連続当選を果たし、
前述したように明治政界の重鎮の一人となったのである。
さて、、当コーナー(2010年7月10日付)では、転職決意の貫徹―「東急」創始者五島慶太を援けた嘉納治五郎、と題する話の中で、江原素六が嘉納に招かれて講演を行ったことに言及しました。
東京高等師範学校校長であり、一時期文部省普通学務局長をも兼任していた講道館長嘉納治五郎は、明治31年8月、「造士会」を創立、10月には機関誌『国士』第1号を発行した。
「一般青年の修養の資」とする為の総合雑誌『国士』発行と共に、「造士会」はその規約の中に定期的に講演会を開催することをも盛り込んでいた。
そして、その記念すべき「造士会」主催第1回講演会の講師に選ばれたのは、江原素六と富田鉄之助であった。
富田は当コーナーで何度も言及したように第二代日銀総裁、東京市長等を勤めたが、慶応3年勝海舟の長男小鹿(15歳)がアナポリス海軍兵学校入学を目指して渡米した時、付添い人として庄内藩士高木三郎と共に渡米したように 勝海舟を生涯、師と仰いでいた人物である。
前述したようにこの明治31年3月行われた臨時総選挙で、江原は静岡県第七区から立候補して5回目の連続当選を果たした。
しかしながら、その5ヵ月後の8月行われた第6回衆議院選挙には東京から立候補して、ろくな選挙運動もせずに落選するが、そんなことは、この時点における江原にとってはどうでもいいことであった。
その明治31年、嘉納治五郎に招かれ、記念すべき造士会第1回講演会の演壇に立った江原は、
『青年諸氏に告ぐ』と題して、アレキサンダー大王をも引き合いに出して若者を鼓舞する演説を行い、その中で江原は次のように話した。

・・・私は前にお話申した通り、母より為し能ふだけ武士の魂を持て、為し能ふだけ武士の行状をせよと云われたと同時に青年の時より常に一の目的希望を有して居りました。
しかも今日まで一歩も挫けずにやって参りましたのであります。
私は役人になりたくもなし、金持ちになりたくもなし、エライ学者になりたくもなかった。
どうか青年の友達となって多少にかかわらず青年の益友となって青年の為即ち国家の相続者のために微力を尽くすことは決して無用の業でないと思ったのであります。
維新前に青年の友となろうということを決めて居ったのです。・・・

青年たちに、こう話しかけた江原素六の真骨頂は、人生を「自己形成の過程」と捉えて、その努力を孜々として終生貫いたところにあった。
明治43(1910)年クリスマスに、68歳の江原は日記に次のように記した。

・・・現時の急務の第一は自己の改善なり。而してその自己改善に就いての先決問題は、自己そのものの実際を省みることなり。儒教にては、自己には真正の自己と物欲の自己とあり。真正の自己を以って物欲の自己を征服することを克己という。修養法の眼目は克己復禮にありとなせり。余の如きは克己未だ足らざるものなり。願わくば神の力によりて克己せんことを。

幼時、父母から叩き込まれた「武士道」、寺子屋や昌平坂学問所で身についた「孔孟の教え」、そして結核が悪化して生死の境を彷徨うという体験をきっかけに掴んだ「キリストの教え」、全て江原にとっては、克己を重ねる自己形成のためのヤスリであった。
一方、江原を講師として招いた嘉納治五郎は、幼時から極めて恵まれた環境に育ち、早くから英学になじみ、東大文学部(同期生6名)において政治経済を専攻した。
当時の東大法学部では英語で英法が教えられていただけで、政治、経済を勉強するには、
文学部においてフェノロサ教授やクーパー教授の英語による授業を受講するしかなかった。
しかしながら、そこにおいて嘉納が得たものは大きく、大学卒業と同時に嘉納は「講道館」を創設し、私塾「嘉納塾」、英語学校「弘文館」を開設したが、嘉納塾、弘文館どちらも講道館柔道を生徒指導(授業)の中心に据え、その上、弘文館においてはジョン・スチュアート・ミルの思想に関する勉強を重点的にカリキュラムに加えている。
東大在学中、嘉納は主として夜間に、天神真揚流、後には起倒流柔術の修行に邁進する一方、二松学舎にも通って「漢学」に磨きをかける努力も続けたのであった。
神戸市灘の「千帆閣」と呼ばれる豪壮な嘉納冶郎作邸の三男として生まれた嘉納治五郎は、幼時から恵まれた環境に育ったが、10歳の時病気で母を失くした。
その母は幼い嘉納に対して常に、「他人(世の中)の役に立つ」人間になるよう諭していたという。
そういう嘉納治五郎が柔術を始めた動機は、敢えて言えば不純なものであった。
14歳の時、東京は新橋烏森にあった私立育英義塾に入学(入寮)し、オランダ人ライヘ、ドイツ人ウェッセルについて英語とドイツ語を学んだが、嘉納は成績優秀、とりわけ数学は抜群であった。
そのため成績不良の級友たちのウサ晴らしの対象となって、体が小さく、どちらかと言えばひ弱な嘉納はよく殴られたという。
その後、官立英語学校も卒業して官立開成学校に進学すると、体力差も大きく、嘉納は真剣に「いじめ」を防ぐ方法であるはずの「やわら」の指導者を捜し求めた。
要するに、「喧嘩に負けない」方法を求めた挙句の「講道館柔道」の誕生であった、とも言えよう。
当サイトで再三に亘って強調したように、起倒流柔術免許皆伝の武道家嘉納治五郎が、
画期的イノベーションによって創始した「講道館柔道」は、今や世界中にサッカーに次ぐ900万の競技人口を擁し、「普遍性を有する世界文化」、「地球文化の一端」を担う存在となった。
世界190余りの国や地域の人々に愛好され、内外から日本を支える有力な「ソフトパワー」ともなっているのである。
自分の誕生前から徳川幕府軍艦奉行として嘉納家とは縁の深い勝海舟に、嘉納治五郎は成人してからも私淑していた。
その勝麟太郎義邦の自己形成に役立ち、勝という玉を磨いたヤスリは少年時代からの「剣術」や「禅」の修業、成人してからの「蘭学」やサイン、コサインの勉強を基礎とする「航海術」の修行であった。
殺気充満の敵陣(薩摩藩江戸藩邸)に、単身江戸城から歩いて出向き、
西郷吉之助その他薩摩藩の精鋭に対してびくともしない無類の人間力を発揮した、「機略縦横」の勝海舟こそ、近代日本第一の英傑である。
再び話を江原素六に戻すと、明治35(1902)年6月1日、静岡県教育協会総会において江原は「島国根性の養成」と題した講演を行い、次のように述べたという。

今日の英国の繁栄は島国根性の賜である。自国が小さな島国であることを自覚し、海外に雄飛した。同じように島国である日本は、同盟国である英国に学ぶべきである。島国根性の養成は教育の力によるしかない。ところが、英国と比べると現在の日本の教育は、文明社会において競争しようという積極性にかけている。それを克服するためには、教育も時勢に応じたものでなければならない。

こう述べた上で、江原は、次のことをも指摘した。

・・・例えば教育勅語は非常に尊いもので、我々国民たるものは拳々服膺しなければならぬ。
併しながら将来時勢の変遷によりては、更に異なった勅語を下さることでございましょう。
其の時には、我々は新しい勅語を奉じなければならぬという場合も、あるいは起ころうと思う。
私の若い時分には、「日本国は焦土となっても醜夷を打ち払わなければならぬ」という勅があった。
それから五、六年経つと「広く智識を海外に求めて万機公論に決す」という、絶対的反対の勅を今の陛下より賜ったので、斯く時勢の変遷に依って変えるのが政治である。
・・・教育の如きも、守るべきは守り継続すべきは継続し興すべきは興し、今日また不適当なるものは潔く捨て教育の発達を図らねばならぬと思う。・・・

このような極めて常識的で現実的な江原の話を、キリスト教徒であるから皇室に対する尊崇の念が薄いとか言って批判、非難するような、ちょっとした騒ぎが起こったのである。
レベルの低い民度(政治意識)にとどまっている当時の日本国であった。
国民の大多数は、「権威主義」に凝り固まり、「事大主義」に流されっぱなしであった、と言えよう。
「鬼畜米英」から「マッカーサー元帥は平和の神様」になるのも、あっという間のことであり、
そういう民族的体質(国民性)は21世紀の今日も全く変わっていない。
前述したように明治36年、著書『青年と国家』を出版した江原素六は、そこで次のように喝破した。

十九世紀より相続した二〇世紀の舞台は、まさしく戦闘の舞台である。その戦闘とは、剣と銃の戦闘だけではなく、筆と算盤の戦闘でもある。こうした国際競争は、今後ますます激しくなるだろう。剣や銃の戦闘はだんだんとその姿を消して行き、知識や権力の戦闘もまた早晩止むかもしれない。だが理想をめぐる争いは、永遠にやむことがない。特に筆と算盤との戦争は世界を挙げ、全力を傾注しておこなわれるだろう。すでに優勝劣敗の鉄槌は我われの頭上に下りつつある。こうした時にあたり、不健全な体質を有する国民は、その競争に耐えられず、その鉄槌の下に落命するだろう。

まるで2011年の今日の話をしているような感じではないか。
江原素六先生記念公園(沼津市西熊堂)に聳える江原の銅像台座に刻まれた「温故知新」の文字が、背景の愛鷹山(あしたかやま)よりも大きく迫ってくる感じである。
さらに江原は、前述の「造士会」講演会に於ける「青年諸氏に告ぐ」という講演の中では次のようにも述べている。

・・・敵国外患なきものは其国垣に滅ぶと云って、寧ろあった方が宜しい、奮発力が増すのでありましょう。却って恐るべきは敵国外患にあらず、亦国の滅びるためでもなくして国民精神の堕落に在ると思うのであります。・・・最も恐るべきは青年諸君の理想の高いと低いとにあるのでございます。
・・・

こう述べた江原は、青年が建てる目標(人生目標)を建築物に例えて、その屋根は高いものではなくても良いと言った。
その一方、建築物に例えれば土台とでも言うべき青年の理想、人民の理想はあくまでも高くなければ、即ち、人民の程度(政治意識を含めての民度)が高くなければ、建物(社会)は簡単に崩壊することを示唆した。
そして、それを防ぐ為に青年に対して儒教でも、仏教でも、キリスト教でも、あるいは哲学でも選んで考究、追求し、己の心身を養う努力をすることを要求して、「青年即未来」という言葉で講演を締めくくった。
これを要するに、青年たちに対して江原は「自己形成の過程で必要な道具、即ち自分を磨く為の道具」を持たなくてはならないことを諭したのである。
好著『江原素六の生涯』の著者加藤史朗氏が、「ヤスリ」という言葉を用いておられるが、
筆者もまた加藤氏の言葉をお借りして、「自己形成の過程で必要不可欠な道具」、換言すれば、「玉(自己)を磨くのに必須の道具」を名付けて、「ヤスリ」としたい。
勝海舟にとっての「剣術」や「禅」、あるいは航海術を含む「蘭学」、嘉納治五郎にとっての「英学」や「漢学」、「ジョン・スチュアート・ミルの思想」や「柔術」、
そして江原にとっての「漢学」、「蘭学」あるいは「キリスト教」は、
いずれもそれぞれの人物の「自己形成の過程に不可欠な道具」として立派なヤスリであった。
江原素六の偉大さは、「キリスト教」という堅牢かつ巨大なヤスリ(鑢)を、終生座右に置いて離さず、己を磨き続けたところにあると思います。
江戸時代には寺子屋の教科書となって、子供から大人までがそらんじていたという弘法大師空海の「実語経」の一節、「玉磨かざれば光無し 光無きを石瓦とす 人学ばざれば智なし 智なき人を愚人とす 君子は智者を愛す 小人は福人を愛す」を、江原素六は少年時代に暗誦していたのではないか。
蛇足ながら付言すれば、「石瓦」とは、堅そうに見えてすぐに崩れてしまう「役に立たないもの」のことであり、福沢諭吉は無気力な日本国民を揶揄嘲弄するために、この言葉を使っていた。
ところで「島国根性」に関しては、筆者は以前当コーナーにおいて、江原素六が前述の静岡県教育協会に於ける講演で用いたのとは全く異なる定義づけをしました。
筆者が定義する島国根性とは、「他者が自分たちより優れていることを認めたがらない(信じたがらない)、内向きで脆く、ひ弱な精神構造」というものであります。
勝海舟、嘉納治五郎、江原素六らの、「雄大凛然たる生涯」は、そういう「島国根性」を完全に脱却した見事な一生であった。
剣術修行を極めた勝麟太郎は、21歳で直新陰流免許皆伝となり、師匠に代わって出稽古(出張稽古)をするようになったが、師匠島田虎之助の許しも得て励んだ「蘭学」のせいで、出稽古を断われるようになった。
その理由は、「洋夷の臭いがする」という訳である。
一方江原素六は、父親が激怒し、友人から絶交されるのもかまわず、「蘭学」修行を文字通り敢行した。
「洋算」を含む「蘭学」の修行なしには、江原は弱冠19歳にして徳川幕府の士官学校である「講武所」の「砲術世話心得」として教鞭をとることは出来なかったはずである。
そういう江原素六を、「造士会」の記念すべき第1回講演会の講師として招いた講道館長嘉納治五郎は、天成の教育家として二度の非職(職務停止)期間を除く通算23年と4ヶ月、東京高等師範学校(現筑波大学)校長であったが、晩年まで少年時代から馴染んでいた「英語」で日記をつけていた。
その嘉納が、大正4(1915)年、当時の高等師範付属中学校教諭、後の東京文理科大学教授諸橋徹次(『大漢和辞典』の編者)に口授し、「教育家四綱領」なるものを見事な「漢文」で発表したが、その大要は次のようなものである。

教育のこと、天下にこれより偉なるはなし。
一人の徳教広く万人に加はり、一世の化育遠く百世に及ぶ。
教育のこと、天下にこれより楽しきはなし。
英才を陶鋳して、兼ねて天下を善くす。
その身亡ぶといへども余薫とこしへに存す。

参考文献
加藤史朗著『江原素六の生涯』 2003年 麻布中学校・麻布高等学校刊
内田宜人著『{遺文}市川・船橋戊辰戦争―若き日の江原素六』 1999年 崙書房出版刊
麻布学園百年史編纂委員会編集『麻布学園の一00年第一巻歴史』
                 1995年 学校法人麻布学園麻布中学校・麻布高等学校刊
開成学園九十年史編纂委員会編集『開成学園九十年史』 昭和36年開成学園刊
上塚司編集『高橋是清自伝』 1976年 中公文庫
元発行「講道館」『国士第一巻、第二巻』 昭和59年 本の友社刊

参照
フリー百科事典ウィキペディア;川田小一郎;顔淵(顔回)

























愛鷹(あしたか)の 峯より高き 江原かな