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真冬の浜御殿(浜離宮)―勝海舟と徳川慶喜、マハン大佐そして秋山真之

浜離宮の目玉、お伝い橋と中の島御茶屋

将軍が舟遊びに使う「将軍お上がり場」の石段

「将軍お上がり場」の前を行く水上バス「竜馬」号
2011年01月10日(月)
道場主 
[東京都]
港区

鴨場に付随する引き堀を覗く「小覗き」

江戸時代の荷揚げ場が残っている内堀
T、慶応4年1月、勝海舟の職場における椿事

徳川一門が独占する政治権力(統治機構)の奪取を目指す島津一門(薩摩藩)、毛利一門(長州藩)を中心とする勢力による圧力の高まりに耐え兼ねて、第15代将軍徳川慶喜は、ついに慶応四年一月元旦、「討薩表」を発した。
前年10月14日には大政奉還が行われ、11月15日には坂本竜馬が暗殺され、12月9日には王政復古が決定されるというテンポで、政争(権力争奪戦)は頂点に達し、巷ではエエジャナイカの掛け声と共に踊り狂う人々があちこちに現れて、騒然たる世相の中での出来事であった。
西郷吉之助や大久保一蔵らが主導し武力倒幕を目指す薩摩藩の挑発に、とうとう乗ってしまった征夷大将軍であった、と言えよう。
大坂城に駐在する慶喜以下幕府首脳は、京阪に駐屯する薩摩藩兵の武力討伐を開始し、
慶応4年1月3日夕方、下鳥羽で薩摩藩兵と幕府歩兵隊との衝突が始まり、その銃声をきっかけに伏見でも戦闘が始まった。
幕府側は鳥羽街道に幕府歩兵隊、伏見街道に会津藩、桑名藩、新撰組(150人内外)を配置して、その総兵力は15000人、これに対し15歳の天皇を担いでいる新政府軍は薩摩藩兵を中心とする4500人であった。
刀槍、弓矢に代わる銃砲主体の近代戦における双方の装備、兵の練度は似たようなものであったが、諸々の要因によって1月6日夕刻までの戦況は幕府軍の敗色濃厚であった。
戦闘開始から3日間、大坂城の奥に籠ったままの徳川慶喜は、敗報しきりの大坂城大広間に幕府首脳を集めた対策協議を開いた。
その最終場面において、慶喜は「未明に打ち立つべし。一同用意にかかれ」と言明したという。
敗色濃厚とは言え兵数においてはこの時点で双方互角であった。
ところがその1月6日夜半、徳川慶喜は小姓に身をやつして大坂城を脱走した。
付き従ったのは会津藩主松平容保、その弟である桑名藩主松平定敬、 老中板倉勝静、老中永井尚志、大目付戸川忠愛、外国総奉行平山敬忠ら数人の重臣と、愛妾お芳(侠客新門辰五郎の娘)である。
新門辰五郎らの手引きによって、天満八軒家から川舟に乗った慶喜一行が大阪湾天保山沖に漕ぎ出した時には真っ暗な深夜で、目指す徳川幕府最新鋭軍艦「開陽丸」はどこに停泊しているのか見当もつかず、一行はやむを得ず目の前のアメリカ軍艦イロコイ号に乗船させてもらった、と言われている。
この時大坂湾には兵庫から大坂にかけて英米仏等併せて18艘の外国船が遊弋あるいは投錨しており、そのうち商船は一隻のみで、他は総て軍艦であった。
風雲急を告げる京阪神の情勢に対応して、万一の場合に自国民(欧米人)を救出するためである。
一方、徳川幕府最新鋭の「開陽丸」を初め薩摩藩その他諸藩の軍艦も同じく18艘、同海域に遊弋するという状況であった。
長さ60メートル、1488トン、13門の大砲を擁し、1859年進水したアメリカ軍艦イロコイ号には、この時、艦長のアール・イングリッシュ中佐以下約230名の将兵が乗艦しており、その内の58人がアメリカ人、次にドイツ人、フランス人が続いてその他ヨーロッパ各国人、黒人、アジア人や混血もいるという当時のアメリカ海軍では普通の人員構成であった。
士官は艦長イングリッシュ中佐、副(艦)長マハン少佐を含めて10人であったが、30歳を超えている者は3人しかおらず、マハン少佐は、この時27歳であった。
そのイロコイ号副長マハン少佐は1868年2月20日付けの母親に宛てた手紙において、徳川慶喜一行を迎えた事件を次のように書き送っている。

「タイクーンと反乱を起こしたダイミョーとのあいだにいくさがあり、タイクーンの旗色が悪く、タイクーンは逃げ出さざるをえなくなりました。タイクーンは自らいくさをすることなく、不名誉なことに、オーサカからエドに、自軍のフリゲートで逃げようとしたのです。
自分の艦が見つけられないので、アメリカ領事によるイロコイ号乗船許可の書状を持参してイロコイ号にやってきました。われわれはタイクーンを迎えるという名誉をもったわけです。
午前三時に、お忍び姿のタイクーンが乗艦。アメリカ領事の書状には、彼等は、極めて高い地位にある将校と書かれておりました。艦長は彼らを手厚くもてなさねばなりませんでした。
その日の朝七時半、彼らはイロコイ号を離れました。この日は風が強く、ボートは木の葉のように揺れ、うすら寒い朝のぬれた甲板に集まった彼らほど哀れそうな人々を今までに見たことがありません。酒を大分飲んでいたようで(艦長から酒食のもてなしを受けた−筆者注)、サンダルは冷え切っており、ガタガタふるえておりました。
刀を二本差し、ピストルをもった彼らがボートに乗り移るとき、イロコイ号の水兵が彼らを子供のようにかかえてボートに乗せましたが、その状況は、哀れでもあり、こっけいでもありました。
日本人は大変小さな人種で、ヒゲもほとんどなく、少年たちが兵隊ごっこをしているように見えます。
強風のため、二十四時間、アメリカ領事との連絡がつかず、反乱の頭のチョーシン(注:チョーシュー)とサツマの軍隊はまだオーサカにきていないようです。・・・・以下略」

こういう状況で開陽丸に移乗した慶喜一行であったが、艦長榎本武揚は鳥羽伏見の戦況調査のために上陸して不在であった。
開陽丸の副(艦)長として沢太郎左衛門は、艦長不在のままでは出航できないことを主張したが、慶喜は強引に出航させ、開陽丸は真冬の太平洋を北上、途中暴風雨にも合い、八丈島の近くにまで流されたが、1月10日浦賀港に入り、11日深夜、品川沖に投錨した。
翌慶応4年1月12日(太陽暦では1868年2月5日)未明、開陽丸から艀に乗った慶喜一行は、写真に見える浜御殿「将軍お上がり場」の石段を上って上陸したという。
寛永期(1624年〜1644年)には将軍家鷹狩の場であったこの場所は、宝永元(1704)年、六代将軍家宣の別邸となり、以後「浜御殿」と呼ばれるようになった。
八代将軍吉宗はここを実用学の実験場としても活用し、サトウキビ、朝鮮人参の栽培に成功したが、
大改修をして現在のような立派な庭園に仕立てたのは、天明7(1787)年から天保8(1837)年まで在位50年の間に、248回ここを訪れた十一代将軍家斉である。
明治維新後、皇室の離宮となり「浜離宮」となったここには、「延遼館」が建てられて外賓の接待にも使用され、明治12年来日した元アメリカ合衆国大統領グラント将軍はここに宿泊した。
庭園としての目玉は、大泉水「潮入の池」とそれを横断する「お伝い橋」、そしてその真ん中の「中島の御茶屋」であるが、都内に唯一現存する海水の池である「潮入の池」は、潮の干満によって池の趣が変わる様式になっている。
庭園来訪者にとって珍しいのは、「庚申堂鴨場」と、それに付随する「引き堀」を覗く「小覗き」という施設ではないか。
歴代将軍が舟遊びの時利用した「将軍お上がり場」の階段は、昭和29年のキティ台風で崩れて下部が海中に沈んだままになっているが、写真で見るように差し当たり石段の崩壊が進む気配は見えない。
さて、この話の中で特筆すべきは、慶応2年、海軍奉行所管の「幕府海軍所」が築地からここ「浜御殿」に移ってきたことである。
神戸海軍操錬所の一件で幕閣の不興を買ってお役御免となり、1年半に亘って蟄居していた勝海舟が、この年慶応2年5月28日、軍艦奉行に復職し、ここ浜御殿敷地内、幕府海軍所が改めて勝の職場となった。
勝は復職後すぐに大坂に派遣され、8月には厳島で長州藩使節と会見するなど東奔西走したが、長州との一件で自分を裏切った慶喜に抗議して9月13日には辞表を提出した。
翌慶応3年3月5日、勝は改めて海軍伝習掛を命じられ、イギリス公使パークス、オランダ総領事ファン・ボルスブルックらと頻繁に会談するようになった。
7月25日には、勝の長男小鹿(15歳)が幕臣の子弟としては初めてアメリカ海軍兵学校(アナポリス)入学を目指して横浜を出航した。
勝の門弟富田鉄之助(後に日本銀行第二代総裁)と高木三郎(後にニューヨーク総領事、同伸会社社長)の二人が共に渡米し付き添って指導した結果、勝小鹿は3年後めでたく海軍兵学校入学試験に合格することが出来、海軍伝習掛としての父海舟の期待に応えた。
余談になるが、日本人として初めて明治6(1873)年、アナポリスを卒業したのは、薩摩藩英国派遣留学生松村淳蔵である。
慶応元(1865)年、徳川幕府の許可しない密航というかたちでイギリスに渡った松村は、その後ロンドン大学、ラトガース大学(アメリカ、ニュージャージー州)で学び、学力を蓄えて、アナポリスに入学することが出来た。
ちなみに、ウェストポイントは日本人を受け入れなかった。
松村は帰国後海軍中佐に任官、後年海軍兵学校校長を勤め、海軍中将で退役し男爵に序された。
話を元に戻すと、この年(慶応3年)後半に至って、冒頭述べたように薩長と幕府の政争は頂点に達した。
12月9日に決まった王政復古、京阪における不穏な形勢や、それについての様々な流言飛語、大坂にいる将軍や老中の留守に、薩摩藩邸を根城に江戸市中で放火その他不法行為を繰り返す浪士たち、このような状況下、江戸市民の不安も切迫したものになっていった。
そして事態はついに12月23日、江戸城二の丸が不審火で消失、翌々25日には「悪の巣窟」と見なされた薩摩藩邸が、市中取締りの任にあった佐幕派の庄内藩等によって焼き討ちされるところにまで到達した。
こういう状況の中で、登城した勝が海軍総裁稲葉兵部大輔に建言したところ、
勝を薩長のスパイのように受け止めている幕閣やその取り巻きたちが多数いることを聞かされ、
怒り心頭に発した勝は退職を願い出ると共に12月23日、海舟狂夫と署名した「墳言上書」を老中に提出した。
当サイト卓話室Tシリーズ15(6頁)で紹介したように、それは憤激の余り本音を吐いた勝が、アメリカ合衆国建国の父ワシントン(華盛)氏を引き合いに出してまで、「公(Public)」の概念、「社会正義」の概念を堂々と打ち出した痛快な論文である。
その冒頭において勝は次のように喝破した。

「後来天下の大権は、門望と名令に帰せずして、必ず正に帰せん。私に帰せずして、公に帰するや必せり。何ぞ又毫も疑いを存せんや。その速やかに一正に帰せざるものは士大夫不学なると、鎖国の陋習に心酔すればなり。今の世外国往来容易に下民四方に行く。ここをもって風化日に新たに、従前の比にあらず。下民日に明らかにして、上者日に暗し。区内の紛擾、ここに起こる。膠柱の陋法、いかんぞよくこれを御し、一静を得るに足らむ。」

老中とか大目付とかの何人かは別として、多くの幕臣と言わず大半の日本人は、「鎖国の陋習に心酔している」者たちであった。
透徹した見識と鋭い切り口、英傑勝海舟の本領が窺えるこの論文において、勝はまた次のようにも述べている。

「都下の士、西国侯伯のその己の説に随わざるを悪(にく)み、或は疑いて叛くことを恐る。ことに天下の大勢を知らざるによれり。侯伯叛きて不羈を謀るは、決してその志達すべからず。況んや今侯伯中俊傑なし、皆小私を懐きて、公明正大を忘るににたり。一朝激して叛せば、その下またその主に叛せん。大侯伯の恐るるに足らざるわれ明らかに是を知る。然るを察せず、群羊にひとしき小候を集めて、是に当らんとす。自ら瓦解を促すなり。何ぞ陋なるや。集合益々多くして、いよいよ益なし。ついに同胞噴争の基を成すか。はた下民をして離散せしむるに過ぎるべし。もしそれ従来侯伯を剥する者は、草莽空拳徒中に興らん、駅長にあらざれば、草鞋を取るの人なり。今の候伯士夫は、その職収まらず、座して人職を受くるの徒、生きながら重衾、その徒事する所の者もまた空拳耕さず、織らず、その活計を下民にとる。なお足らず重賦して民の膏血を吸う。主宰の職いずれに在るや。人身の離散、日を卜して知るべきなり。ただ一に名文の未だ破れざるをもって、瓦解に遅速あるのみ。深慮して思わざるべけむや。」

「今侯伯中俊傑なし」と喝破した勝が、事あるごとに頼りにしていた名君、福井藩主松平春嶽(慶永)は、勝海舟を先生と呼んでいたが、
その春嶽は、「我に才略無く、我に奇なし。常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ」という言葉を残している。
神戸海軍操錬所の一件で幕閣の憎しみを買った勝が軍艦奉行を免職となる直前に、大坂の旅籠で初めて勝と面談した西郷隆盛は、その感想を大久保利通に宛てた手紙において、
「・・・どれだけ知略これあるやら知らぬ塩梅に見受け申し候。
まず英雄肌合ひの人にて、佐久間(象山)より事の出来候ふ儀は、一層も越え候はん。
学問と見識においては、佐久間抜群のことに御座候へども、現事に候ふて、この勝先生とひどく惚れ申し候・・・・」と書き送っている。
門弟の坂本竜馬やその弟分の陸奥宗光ら、多くの人材が、「共有の海局」を目指す勝の薫陶によって、世に出る道を拓いた人々であった。
敢えて松平春嶽の言葉を借りると、春嶽が持ち合わせないと謙遜する「才略、機(奇)略の塊」のような存在となった勝海舟の懐に、今や「敗軍の将」、「窮鳥」となった徳川慶喜が飛び込んで来たのである。
慶応4年1月12日未明、赤坂氷川町の邸で寝ていた勝のもとに使いが来て、馬に乗った勝は自らの職場「幕府海軍所」がその一隅にある「浜御殿」に勤務時間前の出勤をした。
未明の呼び出しは、大坂城を脱走し開陽丸に乗って逃れてきた将軍慶喜の「勝安房を呼べ」、という下知によるものであった。
この時慶喜はフランス皇帝ナポレオン三世から贈られたフランス式軍装をして刀は背中に掛けていたという。
将軍の前に現れた勝は刀を杖のようにして突っ立ったまま、お辞儀もせず、会津藩主、桑名藩主兄弟や老中に対して、事(鳥羽伏見の不始末)の仔細を尋ねたが、誰もはっきりした言葉を出せる者はいなかったという。
もはや事態は、「英邁」だとか「強情公」とか評されていた徳川慶喜(30歳)の知力、胆力あるいは権力の及ぶところではなかった。
一方勝は、わずか二十日たらず前の12月23日、幕閣の対応に憤激して退職を願い出ると共に、
海舟狂夫と署名した前述の「墳言上書」を提出したばかりであり、
海舟流に言えば、勤めを「しくじった」身であった。
そうではあっても、そのような勝海舟以外に、目の前の事態を解決できる人物は存在しないことを認識できたところが、徳川慶喜という人物にとっては幸運であった。
「四十俵小普請の出」という、幕臣としては最下級(一説によれば現今の月収7万円程度)の身分から抜擢された勝には、慶応4年1月(44歳)のこの時、国家の命運を担って縦横に腕を振るう覚悟(胆力)と、政策形成能力、政策遂行能力とが備わっていたのである。
「天凛の資質」と、「剣、禅を中心とする少年時代からの厳しい修行」、成人してからの驚異的、超人的集中力をもっての「蘭学修行」等によって、近代国家の指導者たる素養を充分に身に付けた勝麟太郎の前半生であった。
37歳の時、軍艦操練所教授方頭取に任命され、翌年には、咸臨丸船将として日本人初の太平洋横断航海を成功させ、その後は幕府講武所砲術師範役を経て40歳の時(文久2年)、軍艦奉行並という異例の昇進を果たした勝のその後は、外国交際を名目とする西南雄藩との政冶権力争奪戦において、古めかしく時代遅れの統治機構(徳川幕府)を抱えての東奔西走、収束の見えない4年間であった。
浜御殿からフランス式軍装で馬に乗り、将軍としては初めて江戸城に入った徳川慶喜を前に喧々諤々の議論が行われたが、結局、1月15日、主戦派の勘定奉行小栗忠純が罷免され、勝海舟が1月17日には海軍奉行に、そして1月23日には陸軍総裁に任命された。
嘉永6(1853)年のぺルリ来航以来15年に亘る紛糾、紛擾を今こそ収束させる時が来たのである。
この日(1月23日)深夜、慶喜と会見した勝は、鼻っ柱が強く、人を利用して突如ハシゴを外すような性癖の持ち主に対し、慶喜自身の「恭順」の意志の再々確認と、一筋縄ではいかない薩長の策謀に対して、一々慶喜の承諾を頂くことなく、勝が独断で事を進めることを承認させた。

U、勝海舟の真の敵、時代遅れの政治システム(門閥制度)と島国根性

「俗は俊異を悪(にく)み、世は奇才を忌む」(『東海散士』)という。
この絶東の島国に押しかけてきた西洋列強の人々の政治意識に比べて、
勝を嫌い、勝の罷免を要求してブツブツ言っていた幕府役人や大多数の日本人の政治意識は、   
「東照神君(徳川家康)以来の御恩顧」等々の言葉に代表されるような、
「次元の低い感情論」とでも呼ぶべき、レベルの低いものであった。
そもそも幕末紛擾のおおもとは、外交問題ではなく、天明、天保の時代から続発した飢饉その他の原因による生活難が国全体を覆って、展望が開けないところにあった。
そういう意味では、21世紀初頭、現今の日本の状況に酷似していた、とも言えよう。
たった2年で失敗に終り、群集に屋敷を取り囲まれ、罵声を浴び、石を投げ込まれて終わった水野忠邦の「天保の改革」なるものが、この国の当時の状況を象徴している。
既にヨーロッパにおいて、ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』や、
カール・マルクスの『共産党宣言』が出版されていたご時世に、
参勤交代に象徴される、滑稽とも言える門閥制度(封建制度)を護持していた人々に、
福沢諭吉が『学問のすゝめ』で説いたような「政治意識」を持てる訳がないではないか。
余談になるが21世紀の今日、「北東アジア」、「東南アジア」と呼ばれる地域は、日本からは東ではなく西にある地域であり、中東、近東等々の言葉を含めて、丸いはずの地球上であくまでヨーロッパを中心とする思考パターンが、21世紀の今日も地球を支配していることは明白である。
そういう地球の絶東(極東)の小島に敷かれた封建制という特殊環境に、何百年も暮らして来た住民にとっては、自発的(内在的)にその政治システムを変革するようなことは思いもよらないことであった、と言うべきであろう。
第一、「高札」によって、二人以上の人間が集まって仕事以外の話をすることは「重罪」として禁じられていた日本社会であった。
どうしていいのか解らない大多数の日本人は、
自分たちの政治システム(統治システム)を変革するような「恐れ多い事」を議論するよりは、
「異人」を排斥、攻撃することに溜まった憤懣と閉塞感の絶好のはけ口を見つけた。
ペルリ来航は、閉塞感に覆われていた人々に格好の標的を与えたのである。
話を元に戻すと、幕末紛擾がいよいよ極まり事態が切迫した結果、慶応4年1月12日早朝の徳川慶喜との会見を以って、文字通り余人をもって代え難い役目を負わされる状況に立ち至った勝海舟であった。
当サイト卓話室Tシリーズ15(10頁)で言及したように、
「危難に際会して逃げられぬ場合と見たら、まず身命を捨ててかかる」ことを常道とした勝は、
「機略縦横、死生の境を行くこと平地の如く」行動して、
江戸市民(日本国民)が塗炭に堕ちるのを防いだのであった。
その勝が明治20年代後半になって対談形式で語った言葉である『氷川清話』には、
現在日本の混迷状況の打開を目指す者にとって、極めて示唆的な言葉の数々が載っており、
この際、その二、三を敢えてここに紹介したい。

 貧乏するほど空論がさかん

○ 世の中はますますつまらなくなって、新聞紙も、政論家も、時勢遅れの空論ばかりにて、日を暮らしている。およそこの空論ほど無益なものは、世の中にまたとない。いくら新聞記者や、国会議員が、毎日がやがやといったところが、軍艦一そうもできはすまい。できないのみならず、国はいよいよ貧乏するばかりだ。そして貧乏すればするほど、空論は盛んになってくる。いや実に困ったものさ。

○ ほんとうに空論をいうものは、国が貧乏すればするほど、盛んになるものだよ。今日世間でがやがやいっているのも、その起こりを尋ねれば、ひっきょう財政困難ということに過ぎないのだ。この財政困難という境遇は、おれも幕末において自ら経験したことがあるから、今日の時勢を考えると、ひどく胸にこたえる。それで感慨のあまり、いろいろと古い書類などを調べて、このごろ『機運遺蹟』というものを書き始めた。

 開国に決まるまで

○ これは、天保・弘化のころから、明治の今日までのおよそ五十年間にわたる時勢変遷の大綱を書いたのだが、初めの二十年は、おれが非常に苦心した時代で、その間には、鎖港論と開港論との騒ぎがあり、尊皇論と佐幕論との争いがある。櫻田騒動があり、長州征伐があり、ついに維新の大改革に終わったのだが、こんな大騒ぎの元も、ひっきょう国幣空乏の一事に過ぎなかったのだ。

○ この時代で、本当に国家問題ともいうべきものは、彼の開国の国是を決定したことだが、これについて世間で説くのは、たいてい間違っているから、おれは当時の書類や手紙などによって、自分が実際経歴したことを、今いった『機運遺蹟』に書こうと思っているが、からだの具合が悪いから、今は中止している。(以下略)

今、日本では、FTA(自由貿易協定)やTPP(環太平洋経済連携協定)をめぐる議論が喧しい。
その多くは空論ではないかもしれないが、日本国民の精神構造は、あの幕末から大した進化を遂げていないことを痛感する。
そして、全ての問題の根源が、「日本国の財政困難」、勝の言う「国幣空乏」にあることは明白ではないか。

 自己を改革すること

○ 行政改革ということは、よく気をつけないと弱いものいじめになるよ。おれの知っている小役人の中にも、これまで、ずいぶんひどい目にあったものもある。

○ 全体、改革ということは、公平でなくてはいけない。そして大きいものから始めて、小さいものを後にするがよいよ。言いかえれば、改革者が一番に自分を改革するのさ。

○ 松平越中之守が田沼時代の弊政を改革したのも、実践躬行をやって、下のものを率いていたから、あのとおりうまくできたのさ。

日本の面積はアメリカ合衆国のカリフォルニア州とほぼ同じであり、テキサス州よりは小さい。
アメリカ合衆国の上院(元老院)議員は100名、下院(代議院)議員は435名であるが、
日本国の衆議院議員は480名、参議院議員は242名という構成になっている。
勝海舟没して112年になろうとする今、高齢化が進んで毎年労働人口30万人が失われる中で、巨額の財政赤字に押し潰されそうになり、人心萎靡、「島国根性(内向きでひ弱な精神構造)」が露呈してきて、益々内向きになってきたこの国の現状に、勝麟太郎義邦はどのような感想を漏らすであろうか。
「亡国負罪の臣義邦涕泣して止まず」と書き記すか、あるいは、「言わねえこっちゃねー」、というところか。
『氷川清話』には、「朝鮮の将来」、「遠大なロシアと目先だけの日本」、「シナを認識せよ」等々のタイトルで、100年後の今日を見越して発言したかと思われるような、正に名論卓説が掲載されているが、それらについては他日言及したい。


V、 日本海軍の創設者勝海舟、そしてセオドア・ルーズベルトとマハン大佐

前述したように、成人してからの勝は、「蘭学修行」に驚異的、超人的集中力を発揮した。
それが、「長崎海軍伝習所」伝習生から、軍艦操練所教授方頭取、そして幕府講武所砲術師範役となる道を拓いたことになるが、その驚異的、超人的集中力の根源には、少年時代からの剣、禅の修業、とりわけ峻烈な「剣術修行」があった。
15歳前後で島田虎之助道場の内弟子第一号となった勝麟太郎は、「薪水の労」を取りながら剣、後には禅の修業にも励んで、21歳の時、免許皆伝となり島田の代稽古を勤めるようになった。
後世、男谷信友、大石進と共に幕末の三剣士(天保の三剣豪)の一人とされた勝の師匠島田虎之助は、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんとする者は、まず心より学べ」という言葉を残したという。
九州一円を16歳で武者修行して名声を上げた島田は上京して、勝麟太郎の義理の従兄弟である直新陰流男谷精一郎信友の内弟子となった。
一年余りで免許皆伝となり、直新陰流島田派を名乗ったのは、流石というべきか。
その実力の高さから「幕末の剣聖」とも呼ばれる男谷信友は、自らは他流試合を全く厭わず、幕府講武所奉行並(2000石)として幕末の剣術界に大きく貢献し、十四代将軍家茂上洛の際は旗奉行を勤めた。
後に明治天皇の前で兜割りの凄腕を見せた榊原鍵吉も島田と並ぶ男谷信友門下の剣豪である。
蛇足ながら勝麟太郎義邦は文政6(1823)年1月30日、本所亀沢町の男谷信友邸で誕生し、現在、本所警察署の裏手にあるその跡地には記念碑が建っている。。
当コーナー(2008年1月6日付)でも勝麟太郎少年が浅草から王子権現まで出かけて行く「真冬の夜稽古」に言及した。
厳しく激しい島田道場の門弟筆頭となった勝麟太郎の剣術修行は、大名の子弟等が、お抱えの剣術指南役に指導される「剣術修行」などとは、全く次元を異にするレベルの高いものであった、と言えよう。
父親である勝左衛門太郎(小吉)惟寅ゆずりの「無類の度胸と根性」は、島田道場での修業、弘福寺における禅の修業、長崎海軍伝習所における航海術の修行(サイン、コサインの勉強から、嵐にも遭遇した外洋航海訓練)等によって磨きがかかり、、勝麟太郎義邦は、「一朝事ある時のリーダー」として、政策形成能力、政策遂行能力を備えるばかりでなく、「無類の人間力」を発揮できる人物となったのである。
その勝は、当サイト卓話室Tシリーズ15(5頁)で言及したように、1862(文久2)年8月、将軍家茂の御前で開かれた陸海御備向(おんそなえむき)取調御用の評定に軍艦奉行として出席した。
席上、「幕府海軍養成に何年かかるか」という質問に、「五百年」と答えて勝は評定をぶち壊しにした。
2年前には、「咸臨丸」艦長として20日足らずのサンフランシスコ滞在の体験もしてきた勝は、徳川幕府とか、薩摩藩とか長州藩とか門閥制(封建制)という時代遅れの統治機構では、西洋の中央集権近代国家に対峙することは到底無理であることを充分認識していた。
そういう認識の持てない幕閣に対する自らの強い苛立ちを込めて、勝一流のハッタリをかませたのである。
日本中の人材を投入しても対応できるか否か、そういう情況認識の中で、勝は、幕府の海軍ではなく「日本の海軍」建設を目指して、「一大共有の海局」論を唱えたのであり、そういう勝先生を敬仰して世に出る道を拓いたのが、坂本竜馬、陸奥宗光、伊東祐亨らの人々であった。
さて、日本海軍の創設者勝海舟が「これでおしまい」という名言を残して、明治32(1899)年1月19日に没してから2年後の明治34(1901)年9月、アメリカ合衆国に42歳と10ヶ月という史上最年少の大統領セオドア・ルーズベルトが就任した。
注目すべきは、そのルーズベルトが幼少より海軍に一方ならぬ関心を持っていたことである。
セオドアばかりでなく彼の従兄弟で後に同じく大統領となったフランクリン・ルーズベルトも海軍には深い関わりを持ち、アメリカ合衆国海軍は、しばしば「ルーズベルト家の海軍」と呼ばれる程であった。
当サイト卓話室Tシリーズ13で言及したように、ハーバード在学中に起筆して、
卒業後コロンビア大学法科大学院に自宅から通学する生活の中で、
1882(明治15)年、24歳のセオドア・ルーズベルトが脱稿した『1812年戦争海戦史』は、三版まで出版され、いくつかの大学のテキストにも採用されたばかりでなく、1896(明治29)年にはアメリカ海軍の艦船全てに配備されることなった。
さらに1888(明治21)年、30歳のルーズベルトが書き上げた『西部開拓史』はベストセラーとなって、初版は1ヶ月で売り切れ、イギリスにおいても評判の書となったのである。
どちらかと言えば虚弱であった少年時代には、父親の計らいでレスリング、乗馬、射撃に精を出したルーズベルトは、ハーバード在学中はボクシングに熱中して、自ら理想とする「逞しく、男らしい男」に成長した。
その一方、「精力絶倫」のルーズベルトは生涯に38冊の本を著し、残された手紙は15万通にも上って、「ペンの人」としても能力抜群であった、と言えよう。
1896(明治29年)、海軍次官補に就任したルーズベルトは、海軍大学に赴いて講演を行い、次のような内容の弁舌を振るったという。

1、戦争に対する備えこそが、平和への最も効果的方法だ。

2、みごとであっぱれな民族は全て、戦う民族だった。(ルーズベルトにとって、昨年清国を打破った日本人は、この美徳を持っている賞讃すべき民族だった)

3、臆病は、民族においても、個人においても許されざる罪だ。

4、戦争への備えのし過ぎからくる何千もの過失は、圧制の悲惨に対する、冷血で無関心からの過ちや、侮辱へのいくじない屈服から生じる誤りよりも、ずっと良い。

5、どんな平和時の勝利も戦争の勝利ほど偉大でない。将来、ある民族において、戦いの必要性が消えるかもしれないが、これは遠い将来のことだ。どんな国家でも武力で防衛する備えなくして、自国を全うさせることや、価値ある行動は不可能だ。

6、ジェファソン大統領が攻撃用戦艦でなく、小型の防衛型砲艦で米国を防衛しようとしたのは間違いだった。攻撃用戦艦艦隊があれば、1812年戦争は未然に防げたかもしれない。

7、兵員は何週間かで整えられるが、海軍関連技術は複雑で、戦艦建造には2年以上を要す。巡洋艦も同様、水雷艇のような小型艦でも3ヶ月かかる。

8、外交はバックに武力がなければ全く無用のものとなる。外交は戦士の主人でなく、使用人だ。

こういう思想信条を披瀝したルーズベルトが5年後には大統領に就任して国を率いるリーダーとなるアメリカ合衆国は、60万人を越える戦死者を出した内乱(南北戦争)の傷も癒え、
今や工業生産高において首位を行く世界帝国イギリスに追いつき、間も無く追い越そうとしていた。
この演説から2年後の「米西戦争」勃発に際し、
ルーズベルト海軍次官補は1898(明治31)年4月、欣然として辞職し、
キューバに赴いて義勇騎兵隊「ラフ・ライダース」第一連隊長(中佐)として活躍、夏にはニューヨークに凱旋して一躍国民的英雄となった。
有り余る国民的エネルギーが迸り出たような感じの米西戦争であり、
アメリカはこれによって始めてキューバと、グアム、フィリピン、プエルトリコを含む旧スペイン植民地を、新たにアメリカの植民地として獲得したのである。
敢えて言えば、二十代屈強の若者が、七十過ぎの老人に無理やり喧嘩を吹っかけたような感じの米西戦争ではあった。
その後のセオドア・ルーズベルトは、「新興国アメリカ」の指導者として、
二流海軍国であったアメリカを一流海軍国にするために大きな力を発揮した史上稀にみる活動的な人物として、ケネディ以前で最も活発な大統領と評されている。
そして、そのルーズベルトを理論面で支えたのが、慶応4年正月7日朝、部下の水兵が十五代将軍徳川慶喜らをボートで開陽丸まで移送するのを見届けた、あのアメリカ軍艦イロコイ号の副(艦)長(当時27歳)であったアルフレッド・セイヤー・マハンである。
日本近海から帰国後、ベルモント号艦長、ワスプ号艦長等を勤めたが、マハンは海上勤務を嫌い、彼の父親が見抜いていたように、明らかに「ペンの人」であった。
1877(明治10年)から3年間、砲術主任として二度目の海軍兵学校教官を勤めたマハン中佐は、その後ニューヨーク海軍工廠や海上勤務の後、1886(明治19)年大佐に昇進して、第2代海軍大学校校長に就任した。
戦略、戦術の研究機関として、世界で初めての独創的な海軍大学校の創設とその存続に努力したマハン大佐は、その海軍大学校での講義録をもとにして、1890(明治23)年、『海上権力史論』を出版した。
そして、このマハンの著作が、もっともよく読まれたのは日本であった。
これを「海上の権力に関する要素」と抄訳して、西郷従道海軍大臣に送ったのは金子堅太郎であり、この抄訳は明治26(1893)年7月号の「水交社記事」において、
「近来傑出ノ一大海軍書ニシテ、独リ米国ノ海軍社会ノミナラズ、欧州各国ノ軍人社会政治家外交官ノ間ニ広ク敬仰セラルル珍書ナリ。我社員ニ必読ノ書」と紹介された。
明治29(1896)には東邦協会から、会長の副島種臣と水交社幹事肝付兼行による序文付きの
『海上権力史論』として全訳が出版された。
若き日のドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、ドイツの将来は海上発展にある、との信念のもとに、
ドイツ海軍の全艦船と、ドイツ各地の全公立図書館に、ドイツ語訳の『海上権力史論』を備えることを命じたという。
一方、大英帝国の絶頂期がようやく傾きはじめたイギリスでは、新興海軍国ドイツとの建艦競争が国家財政を圧迫して一大政治問題化している時であった為に、マハンの著作が海軍増強派にこの上ない理論的根拠を与えた。
21世紀初頭の今、ITその他先端技術をめぐる世界各国の厳しい戦いも、こういう見地から見ると結果は重大である。
マハンの『海上権力史論』は、彼が展開したイギリス海軍の史的研究を通じて、イギリス自身にも、海上権力(シー・パワー)の意義と重要性を目覚めさせたのであった。


W、マハン大佐と秋山真之

明治30(1897)年6月26日、海軍大尉(海兵17期)秋山真之(30歳)は、「米国留学被仰付(おおせつけらる)」の辞令を受けた。
同時に、財部彪(海兵15期首席、後に海軍大臣)はイギリスに、林三子雄(海兵12期、旅順港閉塞作戦で戦死)はドイツに、村上格一(海兵11期、後に海軍大臣)はフランスに、そして広瀬武夫(海兵15期、旅順港閉塞作戦で戦死))はロシアに、夫々留学を命じられた。
中断されていた派遣留学生の制度が復活したのは、日清戦争で清国から獲得した賠償金としての銀2億両(テール)が国庫に入ってきたせいであろうか。
当時の日本円にして3億円は、国家予算の数年分に相当したからである。
留学に当って秋山は、
「今までの海外留学の先輩は、その国の海軍技術を学んだだけだ。自分はそれを突破して、外国のエッセンスを自主的に使いこなせる所までやりたい。それを戦略・戦術の面でやりたい。このため、マハン大佐について学びたい」、と考えていたという。
アメリカに渡った秋山は海軍大学への入校を希望したが、国家機密を扱うので、外国人の入学は許されなかった。
アメリカでの自らの研究状況について、秋山は自分と気が合って仲が良かった海軍大学で2期先輩の竹下勇大尉(海兵15期)宛の書簡において次のように伝えている。

「如御存知此国は社会の形式威儀至極簡単にて、内外の差別真に少く、小生華府に入りてより未だ半年不足(たらず)に候得共、海軍部内に知人を得る事、已に十数。大抵皆淡泊懇切なる人士にして、小生修学上の助力を惜しまず、特に海軍文庫にも屡々出入りして、有数の著書記録等を借読するの便宜をも得、小生目的上の便益不過之(これにすぎず)と存居候。
大佐マハン、大佐グードリッチの如き、当国有名の兵家にも容易に知近するを得、屡々戦術講究上の助言相受け居り、是亦小生の至幸と致す所に御座候。
―――マハン大佐等の助言に依れば、戦略・戦術を研究せんと欲せば、海軍大学校僅々数箇月の過程にて事足るものにあらず。必ず能く古今海陸の戦史を渉猟して、其成敗の因て起る所以を討究し以て――自家独特の本領を養成するを要すと――誠に適切なる助言にて云々」

一方、後に日露戦争後半には巡洋艦「笠置」の艦長を勤め、大正9年連合艦隊司令長官に任命された山屋他人少佐宛の書簡において、アメリカから秋山はマハン大佐に関する自らの所見を次のように書き送った。

「小生ハ一から十マデハ大佐ノ所説ニ敬服致サズ候得共、其言行ニ依リテ察スルニ、大佐ハ哲学的頭脳ニ論理的思考ヲ加味シタル神経質ノ兵学者ニシテ、米国人ニハ真ニ珍シキ精神家ト見受申候。故ニ其所論等往々過密多岐ニ亙ルノ弊アルコトハ、彼ノ権力史論ヲ読ミテモ知ラル可ク、併シ今日ノマハン大佐ハ、権力史世ニ出デタル当時ノマハン氏ヨリ遥ニ見識モ理想モ高マリテ、其所説ノ見ルベキモノ不小(スクナカラズ)――兎ニ角、此人一定ノ用兵主義ト国家的大野望ヲ抱蔵シテ居レバ、中々以テ油断ノナラヌ老爺ト小生ハ看破致居候」

明治24年から2年間二度目の海軍大学校長を勤めたマハンは、秋山が渡米する前の明治29年2月には依願退役(56歳)して、翌明治30(1897)年には『ネルソン伝』を出版するという生活の中で秋山の訪問を受けたのであった。
アメリカ滞在中、二度に亘りニューヨークの自宅にマハンを訪問した秋山真之の人物評は、ずばりマハンの本質を衝く正鵠を得たものであった。
マハンには二人の弟がおり、兄弟三人いずれもアナポリスの海軍兵学校を卒業して職業軍人としての道を全うしたが、ウェストポイントを首席で卒業して教官となり、ウェストポイントの陸軍士官学校の主といわれて戦略・戦術を講じていたマハンの父デニスは、長男アルフレッド・セイヤー・マハンの海軍軍人志望に強く反対したという。息子は軍人向きではない、牧師とか教師といった知的職業が向いている、ということであった。
部下の指揮や艦の運用(操船)が不得手で、海上での生活を嫌い、艦長室にいるよりも自宅の書斎での執筆生活を好んだマハンは、1902年アメリカ歴史学会の会長にも就任している。
ベストセラーとなった『西部開拓史』が高く評価されて、1912年アメリカ歴史学会会長に選任された博覧強記の人セオドア・ルーズベルトは、1914(大正3)年3月、74歳でマハンが没すると、
翌1915年1月13日付の雑誌「アウトルック」に「一人の偉大な公の人(A Great Public Servant)」と題して弔文を寄稿し、そこで次のように述べた。

「(マハン大佐は)米海軍史上の有能な一士官に過ぎない。近代兵器の実際の運用に関してはマハン大佐以上の技量を発揮した士官は少なくない。しかし、海軍の必要性を一般大衆に啓蒙したことでは大佐は冠絶している。また、国際問題に関して、第一級の政治家としての意見を持つ唯一の偉大な海軍の書き手であった」

米国の海外進出や外交に不可欠の海軍関連でマハンの意見を聞き、とりわけ「海軍増強の必要性」を世論に訴えることにマハンのペンを活用したセオドア・ルーズベルトであった。
ルーズベルトは海軍や米国史の著述では、マハンの先輩であり、
二人が初めて会ったのは、1887(明治20)年、マハンが校長をしている海軍大学において、
ルーズベルトが自らの処女作のテーマであった「1812年戦争海戦史」の講演を行った時であった。
さて、マハン大佐や海軍大学校長グッドリッチ大佐、そして多くの淡泊懇切なアメリカ海軍士官らとの幅広い交流以外に、秋山真之のアメリカ留学生活を極めて実り多いものとしたのが、
秋山が絶えず身を寄せたワシントンの日本公使館と、そこにおける駐米特命全権公使星亨、
そしてその後任の小村寿太郎との深い交流である。
秋山が初めてワシントンに顔を出した時の駐米公使星亨は、無類の読書家であった。
本を読みながら食事をし、読みながら食べながら人にも会う、という人を喰った人物でもあった星は、公使としての交際費の大部分を書籍の購入にあて、星の不慮の死の後、数万ともいわれるその蔵書は、慶應義塾大学図書館に寄贈されて現に星文庫として収蔵されている。
ワシントン日本公使館2階の一室が星の書斎となっていて、秋山がそこに出没して勝手に本を取り出して読むことを苦々しく思っていた星が、ある時機嫌を悪くして大声で秋山を怒鳴った。
これに対して秋山は、「公使は貴重な書物を色々お求めになりますが、とてもそんなに沢山お読みになれますまい。ワシが代わって読んで差し上げているのです。」と応えて周囲の公使館員らを唖然とさせたという。
容貌魁偉、時に傲岸不遜、そのあだ名も「おしとおる」であった星亨は、
幕末、横浜のヘボン塾で英語をみっちり学び、日本人離れした発音の英語教師を前身としたところは、後に首相となった高橋是清と同じである。
陸奥宗光の知遇を得て第四代横浜税関長を勤めていた明治7年、
Queenを女王と訳したところ、女皇と訂正しろと抗議した英国領事を相手に不敬な言葉を吐いたとかで外交問題になりかけ、英国留学を命じられてイギリスに赴いた。
その年の暮れからロンドンの法学院で学んで明治10年にはバリスターの免状を手にし、日本人としては国際弁護士の第1号となった人物である。
駐米公使となる前に、既に第二代衆議院議長を務めた「政界の領袖」星亨は、公使館の仕事は書記官まかせで朝から晩まで本を読んでいたが、間もなく特命全権公使を辞して帰国、秋山真之は代わって赴任してきたキャリアー外交官小村寿太郎とはかなり突っ込んだ交流を楽しむことが出来た。
秋山は小村寿太郎とは、囲碁の良い相手であったという。
百目を取るか取られるかと言う勝負のザル碁であったが、晩餐後12時ごろまで、二人は碁が半分、
話が半分という時間を楽しんだ。
ある夜、碁の相手をしながら、秋山はたずねた。
―――公使はながいこと大隈さんの下でお働きになりましたが、大隈さんに対する世評は、ずいぶん極端に割れています。私の友達にも、大隈さんをとても尊敬している者がいますし、まるでだめだと馬鹿にしている者もありますが、公使はどんなふうにあの方をお考えですか。
―――そう、そう。思い出しましたよ。私は二度ほど勝海舟さんに会いましたがね。勝さんの大隈さんに対する批評が、とても面白かった。
勝さんは、例の毒舌でしょう、こんな風に言ってたな。
「大隈はね、まだ外交家とか大政治家とかいう資格はないぜ。その点から言えば大隈は子供だよ。
女と子供は何でもそのまましゃべるというが、大隈がそれだよ。アイツの頭には、生理的に秘密というものがないのだろう。秘密性を欠いているヤツは、大政治家とか外交家とかになる資格はないね。」勝さんの評はだいたいそんな意味でした。
―――面白い見方ですね。公使もご同感でございますか。
―――私も大隈さんという人はどうも勝さんのいうような人だと思います。うっかり大事は話されぬ人物だと感じています。(中略)
秋山はまた聞いた。
―――松隈内閣で、政党の力がはっきり出ましたね。外務の大隈さんは改進党でしょう。こんどの
隈板内閣は、自由党と改進党の連合だから、純然たる政党内閣ですね。世間も党派熱は強くなっています。公使は、この問題をどうお考えですか。
―――秋山さん、政党というものは、明治になってから外国をまねてできたものでしょう。外国の政党には、長い歴史があります。人はある主義を信ずるから、ある政党に入るのです。入った以上、その政党と運命をともにします。先祖はその主義のために血を流して、家はその党派のために浮き沈みを重ねてきたのです。ほんとに主義を信ずる党員が生まれたから党派ができたのですよ。日本は違います。そんな人間も、そんな家も、そんな歴史も、ないじゃありませんか。
―――そうですね、日本では政党ができたから、党員が集まったのだな。日本のいわゆる政党というものは、私利私欲のために集まった徒党です。主義もなければ、理想もありません。ひどいものですな。このごろの政治の様子は。
―――そこまでいえるかどうかわからないが、利益のために節操を売ったり、権力者に近づこうとして自分の党派を犠牲にしている連中も、ずいぶんいることはいるようですね。
―――日本の外交を、そんな党派の手にまかせるのはあぶないですね。
―――そうです。藩閥というものは、もう実態がありません。あれはもうshadowです。政党なんてものは、憲法政治という迷いからできあがった一種のfictionです。両方とも、根もなければ実体もないものです。この二つが日本現在の政治界を争っているのですから、ほんとに心配ですよ。
―――こんな有様で、今にどうなるのかな、
と秋山が独語すると、小村は考え深そうな目付きをして、はっきり答えた。
―――だれにも見当はつきますまい。今から慎重にこの問題は考えねばなりませぬ。他人に聞いて、他人に教えられる問題ではありませぬ。みんな銘々の位置と職務とにかんがみて、まじめにこの問題を研究することが必要ですね。私はかならず将来日本にある時期が来るだろうと考えています。
―――そのある時期とは?
―――そのある時期というのはね。藩閥と政党ですね。この二つの空な勢力が、日本をしょうのないところへもちこんでしまうときです。ほんとにお国のことを心配するものは、今からこの危ない時を救う用意をしなければなりませぬ。それには閥族からも政党からも離れて、不偏不党の位置にわが身をおいて、一身の修養をするほかに、今は道がないのだと想います。
後に日露講和会議において、日本の権益を一身に背負った小村寿太郎と、このような対話を楽しんだ秋山真之は幸運であった。
そして、幸運には幸運が続いて、秋山のアメリカ留学生活には更に大きな「オマケ」がついた。
1898(明治31)年4月に始まって9月に終結した「米西戦争」を、アメリカ海軍兵員輸送船「セグランサ」に乗船して、英、仏、ドイツ、ロシアの各国観戦武官ら十一名と共に、つぶさに「海戦の実態」を観察(視察)することが出来たことである。
帰国した秋山は、間もなく常備艦隊参謀、海軍大学校教官等を勤めて明治37年、連合艦隊旗艦「三笠」に乗艦、世界史に残る「日本海海戦」大勝に大きく貢献した、と言われている。
人格者として高名な海軍大将山梨勝之進(海兵25期、後に海軍次官、学習院長、戦後初の水交会会長)は、秋山真之{教官}のこと、と題して次のような一文を寄せている。

「私が海軍大学校学生のころ、教官に秋山真之中佐がおられました。
戦略・戦術、戦務を体系づけられた、飛びつきたくなるように魅惑的で、筋が通って胸のすくような講義でありました。
アメリカ海軍の空気と、感情と、科学的方法と組織とを、日本海軍に導入されたのは、
秋山教官の力であります。」

秋山の上司(参謀長)島村速雄は、秋山真之の追悼会において次のように語っている。

「精力絶倫、神算鬼謀、真に稀世の軍略家たりし故人(秋山)を軍師として控え、計画立案一に彼が明敏なる頭脳と手腕に待ちまして、私は唯その成案をそのままに(東郷)長官に取り次ぎ採決を仰いだ」

その日露戦争が終結し、ポーツマス軍港における「日露講和条約」も両国によって批准された後の明治38年12月20日、連合艦隊はその戦時編成を解き、翌21日の解散式において、
連合艦隊司令長官東郷平八郎は、「連合艦隊解散の辞」を述べて告別とした。
「二十閲月の征戦已に往事と過ぎ」という書き出しで始まるこの「連合艦隊解散の辞」は、
近代日本の名文の一つと称えられているが、これを起草したのは秋山真之であるという。
しかしながら、「勝った、勝った」の驕慢の風が吹きまくる中で、
研鑽に研鑽を積んだ秋山の忠告、警告とでも言うべきこの名文の最も大切なメッセージを、
日本国民はテンから忘れはててしまった。

「...更に将来の進歩を図りて時勢の発展に後れざるを期せざるべからず...神明は唯平素の鍛錬に力め戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫(うば)ふ古人曰く勝て兜の緒をしめよと」

日露戦争後、驕慢の風は吹き募り、第一次世界大戦の結果は更にその風の勢いを増したのと符節を合わせて、
焼け跡から立ち上がって東京オリンピック、大阪万博をこなし、オイルショックを乗り切ったあたりから、驕慢の風が吹き渡った日本国であった。
明治から昭和にかけて、「三等国から一等国、五大国の一つ」とか、冷静に考えれば滑稽とも言える言葉が日常茶飯に使われていた。
もはや戦後ではなくなって、「所得倍増」、「列島改造」等々の動きの先では、「昭和元禄」、「経済大国」、「GNP二位」、そして近頃は「人口逓減老人国家」という現実に目を覆って、「先進国」なんていう言葉がむやみに振りまかれる国となった。
明治19年、海軍兵学校に入学した秋山真之は、東京築地で二年、学校が移転し、江田島で二年の学校生活を送った。この時海軍兵学校に日本で始めて、「講道館柔道」が正課に採用されたのである。
大正7(1918)年2月4日、虫垂炎が悪化して腹膜炎を併発した秋山は、
小田原の山下亀三郎(秋山と同郷愛媛の出身で山下汽船の創業者)の別邸で死去した。
享年49歳。
その死を悼んで、海軍兵学校同級生の一人から次のような言葉を寄せられた。

東大予備門出の君は、第一学年を終わった時から首席をおし通した。
君は容貌、非凡。容易に動かず、動けば敏捷なること隼(はやぶさ)の如くであった。
負け嫌いの、意志の強き、無頓着な、器用な、組織的な、まことに稀代の人物であった。

秋山真之は、今のこの国の風潮を見て、どのような言葉を吐くであろうか。

参考文献
谷光太郎著『アルフレッド・マハン』 1990年 白桃書房刊
谷光太郎著『米国東アジア政策の源流とその創設者―セオドア・ルーズベルトとアルフレッド・マハン』 平成10年 山口大学経済学会刊
島田謹二著『アメリカにおける秋山真之』 2009年 朝日文庫
阿部真之助著『近代政治家評傳』 昭和28年 文芸春秋新社刊
江藤淳、勝部真長編『勝海舟全集14』 1970年 勁草書房刊
松浦玲著『勝海舟と幕末明治』 昭和48年 講談社刊
田中惣五郎著『勝海舟』 昭和15年 千倉書房刊
村上元三著『勝海舟』 1991年 徳間文庫
石井孝著『勝海舟』 昭和61年 吉川弘文館刊
参照
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