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転職決意の貫徹―「東急」創始者五島慶太を援けた嘉納治五郎

文京区教育の森公園(占春園)の嘉納治五郎像

五島美術館庭園、瓢箪池と赤門

多摩川に面した斜面に深山幽谷の趣も
2010年07月10日(土)
道場主 
[東京都]
世田谷区(東急大井町線上野毛駅下車)、文京区(東京メトロ茗荷谷駅下車)

園内至る所に大小様々なタイプの灯篭が

斜面を利用して設えられた「大日如来像」
1、仲人、古市公威
満29歳、普通の人より4年遅れて東大法科を卒業し、同時に農商務省に入省して高等文官試験にも合格した小林慶太は、間も無く30歳になろうとする明治45年2月24日、工学博士古市公威の媒酌で、同じく工学博士の久米民之助の長女五島万千代と結婚し、小林から五島に改姓して五島慶太となった。
五島というのは久米民之助の母方の姓で、万千代は慶太と結婚して五島という廃絶していた家を再興したのである。
この結婚の仲人を務めた工学博士古市公威は、当コーナー(2008年5月10日付)で「『氷川清話』の背景、専修大学」と題して紹介した第一回文部省派遣留学生(アメリカ滞在8名、アメリカ経由フランス滞在3名)として選抜された、当時日本の代表的秀才11名の一人であった。
同コーナーで言及したように、徳川藩(静岡藩)学問所を代表する英才として驚異的学習能力を発揮し、既にハーバード大学法科を卒業して(学位を得て)明治7年には帰国した目賀田種太郎は、明治8年、第一回文部省派遣留学生のための「留学生監督」に任命された。横浜港から出港した留学生一同は、当時22歳の留学生監督、目賀田種太郎にアメリカ東部まで引率され、太平洋を渡る船中や、大陸横断鉄道の車中において、自分たちを待ちうける留学生活について多くのアドバイスを得たのではないか。
目賀田はボストンに留まり、小村寿太郎(ハーバード大学法科)、菊池武夫(ボストン大学法科)、斉藤修一郎(ボストン大学法科)、鳩山和夫(コロンビア大学法科)、原口要(レンセラー工科大学)、平井晴二郎(レンセラー工科大学)、長谷川芳之助(コロンビア大学鉱山学科)、松井直吉(コロンビア大学鉱山学科)南部球吾(コロンビア大学鉱山学科)らを監督する一方、自らの学問研究にも励み、明治12年(26歳)帰国する。その後、勝海舟の娘婿となった目賀田種太郎の明治から大正にかけての日本の官界、学界における目覚しい活躍については同コーナー(2008年5月10日付)で詳述した。
目賀田や8人のアメリカ留学生と別れてパリに向かった古市公威は、猛烈に勉強して明治12(1879)年、フランスの中央工業大学(エコール・サントラル)を卒業して工学士となり、その年パリ大学理学部に進学、翌明治13年には卒業して理学士の学位も受領した。
帰国した古市は明治13年12月、内務省土木局雇いとなり翌年には東京大学講師を兼任、明治19(1886)年には32歳にして帝国大学工科大学(工部大学校の後身、東大工学部の前身)の初代学長に任命された。
明治27年、内務省初代技監に就任した古市は、内務省土木局のトップとして、全国の河川治水、港湾の修築、土木行政の改善と土木法規の制定に尽力し、土木学会初代会長、日本工学会理事長も務め、近代日本土木界の最高権威者として、今その椅子に座った姿の銅像が東京大学本郷キャンパスに置かれている。
いわゆる「二足の草鞋」を官学二界において最高の次元で実践した古市は、東京仏学校(後に東京法学校と合併して法政大学となる)の初代校長にも就任、更には東大総長渡邉洪基の要請によって工手学校(工学院大学の前身)の創立を推進し、30余年に亘って同校の発展に寄与した。
土木技術者としての大きな功績の一つとして、明治32年から始まった横浜築港第二期事業(繋船岸壁や横浜駅と港を結ぶ鉄道)の画期的設計を挙げられているが、古市は阪神電気鉄道の創立にも関与し、以後の日本の鉄道路線網の形成に大きな影響を与えたとされている。
21歳でパリに渡った留学生古市公威は、あまりの猛勉強ぶりに身体を壊しはしないかと心配した下宿の女主人が休むよう勧めると、「自分が一日休むと、日本が一日遅れる」と答えたという。


2、岳父、久米民之助
古市の媒酌によって小林慶太の妻となった万千代の実父である久米民之助は、上州沼田藩士の子として文久元年に生まれた。明治9年(16歳)には上京して慶応義塾に入学したが、明治11年、虎の門に新設され、全寮制で全館スチーム暖房を備えるばかりでなく、寮の食事には日本人が見たこともないビフテキを供する、当時の最新鋭最高級文教施設とでも称さるべき工部寮改め工部大学校(東大工学部の前身)に転学した。
余談ながら、最近当コーナー(2010年4月11日付)で言及した尾崎行雄は、明治7年(16歳)上京して慶応義塾児童局に入学したが直ぐに福沢諭吉にその才幹を認められ、最下級12級から最上級生にされたという。
ところが、直ちに世の中で役に立つ学問を求めた尾崎は、これに反駁する論文を書いて慶應義塾を退学、染物屋になるために明治9年工部寮に入学した。
折角転学した工部寮ではあったが、学風の違いや理化学に対して嫌気がさした尾崎行雄は、はけ口を求めて『曙新聞』などに薩摩藩の横暴を批判する投書を始めたところ、それらがいずれも好評を博したという。
結局、工部寮を1年足らずで退学し慶應義塾に戻った尾崎は、明治12年福沢の推薦で21歳にして新潟新聞主筆となる。
その後、程なくして尾崎は統計院書記官となったが、「明治14年の政変」によって退官を余儀なくされ、翌明治15年の大隈重信らによる立憲改進党の結成に参加した。
同時に尾崎は、矢野龍渓が大隈重信と謀って買収した「郵便報知新聞」に論説記者として加わり、犬養毅(木堂)も共にそこで筆を振るう。矢野龍渓は、若くして慶応義塾大阪分校、徳島分校の校長を務めた秀才であり、自由民権の代表的論客であった。明治17年ベストセラー小説『経国美談』を発表したが、それは当時の青年たちがその一節を暗誦することに熱を上げるほどの人気作品(政治小説)であった。
政治権力奪取(既成支配機構の転覆)その他、様々な思惑と政治的欲望を背景に盛り上がった自由民権運動なるものに対して、明治政府は明治20年12月25日、突如「保安条例」を公布し、しかも非番で忘年会に出席していた警視庁巡査の半数までもを緊急動員して、酷烈な条令を即日実行した。
これにより、自由民権家570人の一人として皇居外三里の地へ退去処分を受けた尾崎行雄は、「道理の引っ込む時勢を愕く」と言って自らの号を学堂から愕堂に変え、後に至って心身の衰えを感じ、愕のりっしんべんを取って咢堂としたという。
時の警視総監三島通庸さえもが躊躇う程の峻厳苛烈、徹底的弾圧の張本人は、他ならぬ内務大臣山縣有朋である。
前述したように、その尾崎より二年遅れて同じく慶応義塾から工部寮改め工部大学校に転学した久米民之助は、明治17(1884)年同校を優秀な成績で卒業して宮内省に入省、皇居造営事務局御用係となって皇居二重橋の設計、造営に携わった。その一方、明治19年には工部大学校(この年、帝国大学令によって帝国大学工科大学校となる)助教授にも任命された。
しかしながら実業(ビジネス)への関心があくまで高い久米は、その明治19年のうちに帝国大学工科大学校助教授と宮内省御用係の両方を辞職して、大倉喜八郎が経営する大倉組(大成建設の前身)に入社、明治20年から22年まで欧米を視察して回った。
明治23年、帰国した久米(29歳)は久米工業事務所を設立し、大正の前半にかけて、山陽本線、山陰本線、台湾西部幹線、京義線、湖南線など日本ばかりでなく、台湾、朝鮮の鉄道工事(設計)を数多く手がけた。鉄道工事以外にも代々木商会を興し、マニラから技師職工を招聘してタバコ、葉巻の製造販売にも成功し、明治後半から大正にかけて久米が住んだ代々木上原の家は敷地4万坪、能御殿もある豪華な家は「代々木御殿」と呼ばれたという。
大正7(1918)年、朝鮮半島の金剛山とその周辺を視察した久米は、翌年金剛山電気鉄道株式会社を設立、自ら社長に就任した。折悪しく第一次世界大戦後の不況の影響をまともに受け、その上関東大震災によって電車用電動発電機が焼失するなどの苦難を経て昭和6年7月1日、金剛山電気鉄道は完成するが、久米はそれを目にすることなく昭和6年5月24日病没した。


3、生い立ちから上京まで
明治15年4月18日、長野県小県郡青木村という千戸あまりの寒村の農家の次男として生れた小林慶太は、極めて活発で、めっぽう向うっ気の強い少年であった。
小林家は、村一番の資産家ではあったが、父小林菊右衛門が製糸事業に手を出して失敗したこともあり家計にさほどの余裕がなく、普通ならば家業を手伝うか、次男でもあり丁稚奉公にでも出されるのが当時普通の相場であったが、慶太は勉学の志やみがたく、父に特別に頼んで中学校に進んだ。
慶太の兄は、慶太の言葉をそのまま借りると、青木村の村長から長野県議会議員という平凡な道を歩んだという。
当時長野県に県立中学は松本中学校一つしかなく、長野、上田、諏訪、飯田の四ヵ所に支校があり、慶太は家から三里の道のりを三年間一日も休まず歩いて上田中学に通い、4年、5年は、松本の知人の家に下宿して松本中学校(松本深志高校の前身)を卒業した。
さらに上級学校に進みたい望みはあったが、家の経済状態を考えると父にそれ以上のことを頼むわけにもいかず、郷里の青木小学校で代用教員をして多少の金を貯めながら進学機会を狙う道を選んだ。
当時は師範学校など教員養成学校を終了しなければ、小学校といえども教壇には立てなかったが、代用教員制度を利用して、慶太は母校の三,四年生に地理、歴史、算数を教えた。
慶太の母は無学で読み書きもできなかったが、頭は非常によく、ものを覚えることの早いことでは村一番といわれる一方、父菊右衛門は、朝起きたとき、夜寝る前、南無妙法蓮華経を五百遍から一千遍ほども唱え、一家はそれが終わらなければ朝飯はくえないし、夜はそれが済まなければ寝られない、という非常に信仰深い両親の下で少年期を過ごした慶太であった。
後年慶太が東京に出て一ヶ月に一度くらい手紙を出すと、父母は決してすぐには封を切らず、日吉神社という村の鎮守の社殿に慶太からの手紙を上げ、慶太の健康と出世と、無事息災を祈り、神に感謝して初めて封を切って手紙を読んだという。
たまに慶太が父母のご機嫌伺いに帰省したときも、父母はすぐにはものを言わず、慶太の顔をみてから、手を合わせて、よく無事でここまで過ごさせていただいて有り難い、どうかこの子供がこれからも健康で、えらくなるようにと拝んで、南無妙法蓮華経と祈ってからはじめて口を開いて慶太と話をしたという。
こういう信仰深い父母によって慶太が少年期に受けた感化は、その生涯に大きな力を与えるものとなった。
明治34年7月21日、19歳の慶太は夏休みを活用して上京し友人の下宿に世話になり、1週間後一ツ橋の高等商業学校(一橋大学の前身)の入学試験を受けたが、英語で失敗して落ちてしまった。落胆はしたが、気を取り直して青木村へ帰り代用教員を続けていたところ翌明治35年1月、東京高等師範学校の生徒募集があった。


4、恩師、嘉納治五郎(上)
明治30年公布、文部省令第10号「高等師範学校生徒募集規則」は、次のように規定していた。
「高等師範学校予科生及び官費専修生は師範学校官公立中学校及び文部大臣に於いて徴兵令第十三条に依り中学校の学科程度以上と認めたる私立中学校の卒業生にして身体健全品行方正なる者に就き地方長官之を薦挙し高等師範学校長其の中より試験の上選抜するものとす」
明治35(1902)年春、小林慶太は長野県庁で行われた東京高等師範学校の入学試験を受けて合格し、英文科に入って、中学、高校という当時の上級学校の英語教師を目指すことになった。
この頃、東京の学生生活は下宿代が毎月10円、学費その他が10円、合計20円で足りると言われていたが、慶太が入学する高等師範は全寮制の上、学資として被服費(本科第一年生には43円62銭)及び食費(全学生に一日に付き17銭)が支給される仕組みになっていた。
慶太は親に金銭的負担を全くかけない学生として晴々と人力車に乗り、父母に見送られて上田駅に向かい、故郷を後にした。
慶太が入学した明治35年の3月には、勅令第98号「文部省直轄諸学校官制」が施行され、以下の学校が文部省直轄学校とされた。


東京高等師範学校    札幌農学校         第一高等学校
広島高等師範学校    盛岡高等農林学校    第二高等学校
女子高等師範学校    東京盲唖学校       第三高等学校
東京高等商業学校                    第四高等学校
神戸高等商業学校    東京高等工業学校    第五高等学校
千葉医学専門学校    大阪高等工業学校    第六高等学校
仙台医学専門学校    京都高等工業学校    第七(造士舘)高等学校
岡山医学専門学校                    山口高等学校
金沢医学専門学校
長崎医学専門学校
東京外国語学校
美術学校
音楽学校


東京高等師範学校における小林慶太の生活は、起床6時(夏5時半)、朝食6時半(夏6時)、夕食5時(夏5時半)、黙学が8時から9時半、そして消灯10時というものであった。
慶太が在学中の東京高等師範学校には明治37年5月31日の時点で、予科、本科、研究科、官費専修科、選科等に合計620名が在籍し、慶太の所属する本科英語部は第1学年23名、第2学年27名、第3学年28名という構成であった。本科には英語部の他に国語漢文部、地理歴史部、数物化学部、博物学部があった。
これら学生を指導するスタッフは、教授50名、助教授9名、助手2名、教諭10名、訓導18名、舎監3名、書記12名という陣容であり、これを率いていたのが「明治日本教育界の巨星」とでも称さるべき校長嘉納治五郎であり、慶太が入学した翌年の明治36年4月、校舎は御茶ノ水(現東京医科歯科大の場所)から、小石川区大塚窪町(現教育の森公園)の新築校舎に移転した。
因みに当時の文部省直轄諸学校教員の待遇(年俸)は、明治33年時点で、校長一級が3000円、同五級が1800円、教授一級が2500円、十二級が600円、教諭一級が1200円、八級が400円、生徒監一級が1200円、八級が400円というものであった。
明治26(1893)年8月、勅令第86号文部省直轄学校官制を以て、教授15人、助教授3人、教諭3人、助教諭8人、訓導12人、舎監1人、書記8人を擁する、どちらかと言えばささやかな規模の、御茶ノ水の高等師範学校は、同年9月、第一高等中学(一高)校長兼文部省参事官嘉納治五郎(34歳)を新しい校長(高等官四等)として迎えたのであった。
既に前々年明治24年8月、第五高等中学校(五高)校長に任命され、この年6月には、慌しくも第一高等中学校(一高)校長に任命されたばかりの嘉納は、講道館館長、高等師範学校校長として、その身辺は多忙を極めることになるが、当サイト卓話室Tで詳述したように持ち前の高い能力と驚異的気魄とによって、二足あるいは三足の草鞋を苦もなく履いて「天成の教育家」としての本領を発揮し始めた。
翌明治27年5月には、講道館初の自前の道場としての下富坂道場落成式が挙行され、その模様は当サイト卓話室Tシリーズ15で詳述した。日清戦争に刺激されて、翌明治28年には柔道大会が日本各地で開催されたという。
ここで暫く、東京高等師範学校から目を講道館柔道に転ずると、明治30年、東京府下第1回柔道連合試合が行われ、翌明治31年には第1回一高二高対抗試合が東京で開催されたように、明治21年、正課体育として講道館柔道を採用した海軍兵学校を嚆矢として、学生間における柔道熱は高まる一方であった。
こういう流れの中で明治30年8月、嘉納は「造士会」を設立、10月には「造士会」機関誌として月刊雑誌『国士』を発刊した。
「造士会」設立の趣旨やその後の動きについては機会を改めて言及したいが、機関誌『国士』を発行するばかりでなく、その規約に「講演会」を開催することを盛り込んだ嘉納が「造士会第1回講演会」に招いた講師は、富田鉄之助と江原素六であった。
その後の雑誌『国士』の多彩な顔ぶれの寄稿者や、講演会講師の顔ぶれを見ると、明治から大正にかけて、日本の学界、官界、政界、財界どの分野においても、嘉納治五郎が広く深い人脈を有していたことは一目瞭然であり、同時に窺がえるのは、嘉納治五郎自身の高邁な見識である。
因みに、第1回造士会講演会で演壇に立った江原素六は、クリスチャンとして高名な人物であった。そして、アカデミックでハイレベルな授業内容と自由闊達な校風を以て知られる「麻布学園」(日本の代表的名門私立中高一貫校)の創立者である。
同じく第1回造士会講演会のもう一人の講演者富田鉄之助は、当コーナー「続『氷川清話』の背景、一橋大学」(2008年7月5日付)で言及したように、日本銀行第二代総裁、貴族院議員、東京府知事等を務めた人物である。
幕末、若くして仙台藩西洋兵法調練講武場砲術教授であった富田は、28歳になって藩から海軍術の勉強をも命じられ、赤坂氷川町にあった勝海舟の「氷解塾」塾生となった。坂本龍馬とは年齢がほぼ同じであり、勝海舟門人として両者は面識があったか、どうか。
明治になって日本海軍の創設者(初代海軍卿)となった勝海舟は、慶応3(1867)年、長男小鹿(当時15歳)をアメリカ合衆国海軍兵学校入学のために私費で渡米させるが、その付添い人として高木三郎と共に選抜されたのが富田鉄之助であった。富田のアメリカ渡航滞在の費用1000両は、初め仙台藩から出て、富田らの監督宜しきを得た勝小鹿(かつころく)は、学力を蓄えて3年後、念願のアメリカ海軍兵学校の入学試験に合格した。
ここで目を再び講道館に注ぐと、明治32年1月8日の講道館鏡開式においては、当時山下義韶と並んで最高位の五段にあった横山作次郎と永岡秀一四段の乱取(試合)が行われ、同じ頃、京都の大日本武徳会においても講道館の磯貝一四段と武徳会教師田辺又右衛門との乱取(試合)が行われて、どちらの試合もその内容は柔道史に残るレベルの高いものであったとされている。
この年明治32年10月2日には、陸軍中央幼年学校に柔道科が設置されて正教師富田常次郎、助教前田榮世が任命され、同じくこの年のうちに京都(武徳会)には磯貝一(後に十段)が、山口には千葉兵蔵(山口高等学校)、福岡には飯塚国三郎(後に十段)、熊本には戸張瀧三郎、仙台には大木園治(第二高等学校)がそれぞれ派遣(配置)され、講道館の最精鋭ともいうべきこれらの人々が、その後日本全土において講道館柔道を磐石のものとする大きな働きをなした。
このようにして隆々と発展した講道館柔道を背景に、明治40年5月には全国師範学校長を、7月には全国中学校長をそれぞれ講道館に招待して、柔道の理論及び教育上の見地からその真価並びに教育法を、一々実地について嘉納治五郎自らが詳しく説明した。
講道館への入門者は引きもきらず、明治42年5月3日、嘉納はそれまでの個人経営の講道館を法人化して、その理事には若槻禮二郎と矢作栄蔵が、監事には渋沢栄一と柿沼谷蔵が就任した。
後年、内閣総理大臣を2度務めた若槻は、周知のように東大法学部を驚異的な(98点5分)成績(首席)で卒業して大蔵省に入省、この時大蔵次官であり、矢作栄蔵はこの時点では東大法学部と農学部の教授を兼任していて、後には東大経済学部長に就任する。
蛇足ながら若槻禮次郎は、司法省法学校から帝国大学法科大学仏法科(東大法学部仏法科の前身)に入学の頃(明治20年)講道館に入門し、卒業の頃(明治25年)初段になり、明治44年に二段、昭和13年(72歳)に三、四段を飛ばして五段を贈られている。
一方の矢作栄蔵は、東大在学中(明治23年)講道館に入門し、翌明治24年には初段になる達者ぶりであった。その後明治44年(41歳)に、二段を飛ばして三段とされた。
この明治42年11月、50歳の嘉納はアジア人としては初めて国際オリンピック委員会(IOC)委員に任命され、日本屈指の「国際人」として、アジア初のオリンピック招致への道を歩み始めたのである。
着々と柔道(講道館)の体制を整えた嘉納治五郎は、翌明治43年2月20日と21日に亘って、下富坂道場に貴族院議員、衆議院議員その他朝野の名士を招待して、講道館の沿革、従来の柔術と講道館柔道との関係、講道館柔道の性質、目的、教授法、修行上の注意点等について嘉納自らが講演し、更に形及び乱取の実演を示した。
続いて翌明治44年7月、嘉納は大日本体育協会(日本体育協会の前身)を創設して自ら初代会長に就任する。
まわり道をしたが、ここで話を元に戻して、小林慶太が入学した東京高等師範学校と、そこの校長としての嘉納治五郎に目を転じよう。
嘉納は上記のように講道館館長、嘉納塾、成蹊塾その他の塾長、文部省普通学務局長あるいは中国人留学生のための宏文学院理事長等々を兼務して多忙を極めながらも、明治26年から延べ23年と4ヶ月に亘って「教育界の巨星」として、誰もその位置を疑わない「天下御免」の東京高等師範学校校長であり続けた。
嘉納にとっては、正に天職とも言うべき東京高師校長職であったが、高齢を理由に辞任したのは、彼が61歳(大正9年)の時であり、その時提出した辞表が嘉納(高等官一等)にとっては生涯初の辞表であった。
小林慶太が入学した明治35年、43歳の嘉納治五郎校長は清国にも出張するなど内外に多忙を極めた。
この時代ばかりでなく長期に亘った校長職の間において、嘉納は常に式日になると大礼服を着て東京高師講堂の演壇に立ち、柔道の自然体そのままに両足を半歩開いて、元気横溢の演説をしたという。
小林慶太より7年遅れて同校に入学し、昭和24年から昭和28年まで「東京教育大学」と名前が変わった同校の文学部長であった福原麟太郎は、「嘉納治五郎といふ人が東京高等師範学校の校長であるといふことは、天下御免の顕著な事実であった。誰も、そのことを知らないものはなく、誰もその位置を疑うものはなかった。元旦の式には松と竹の大植木鉢を左右にして、緑の絨毯がしきつめられ、うしろには紫のまん幕が張られている、そのまん中に立って、先生は誠に威風堂々たるものであった。さういう光景を思ひ出すと大正のころがなつかしくなる。その頃は、学校教育というものがあったような気がする。」と述懐している。
小林慶太と同じく東京高師英文科を卒業し研究科を経て大正10年、母校東京高等師範学校助教授に採用された福原麟太郎は、昭和4年にはロンドン大学、ケンブリッジ大学に留学し、18世紀イギリスを代表する詩人トマス・グレイを研究して昭和6年に帰国した。日本を代表する英文学者として大成した福原麟太郎は、昭和21年から昭和28年まで日本英文学会会長を務め、昭和39年には推されて日本芸術院会員になり、昭和43年には文化功労者として表彰された。
校長としての嘉納の訓示や演説を聴く以外に、小林慶太は東京高師在学中には授業として週に一度、嘉納の「修身」の授業を受講したが、それについて後年次のように述べている。
「その授業の変わっていることは、はじめからおしまいまで『なあにくそッ』の一点張りで、ほかのことはなにも説きゃしない。これは柔道の方からきた不屈の精神の鼓吹で、勝っても『なあにッ』、負けても『なあにッ』、どっちへ転んでも『なあにッ』という訓えであった。私も最初は、変なことをいう先生だと思っていたが、これを一年間、繰り返し聞かされているうちに、なるほど、そうかなあ、とだんだんわかり出してきた。しかし、体験的にはまだよくわかりきらなかった。
ところが、世の中へ出てみて、先生の訓えが本当にわかった。高師では、英語とか地理とか、教育学とか、いろいろ教わった。それらの大方は忘れてしまった今日まで、一番頭に残り、一番役に立ったのはこの『なあにくそッ』であった。どんなことにぶつかっても、これさえ忘れなければ必ずやっていける、という先生の言葉はウソではなかった。」
嘉納治五郎校長からこのような薫陶を受けた小林慶太は、明治39年3月10日、東京高等師範学校英文科を卒業した。
日露戦争終結翌年のことであったが、満州では前年のこの日、日本陸軍が奉天大会戦において歴史的な勝利を博し、3月10日はその後、陸軍記念日となった。


5、恩師、嘉納治五郎(下)
明治39年4月7日、三重県四日市商業学校に英語教師として赴任した小林慶太の月給は45円であった。この頃の東京、大阪では、多少の庭めいた空地に面して縁側つきの六畳に三畳間の2部屋と台所、一応玄関の土間もある家の家賃が2円80銭という時代であったから、慶太の両親は大いに安堵したという。
新任の英語教師小林慶太は、五分刈りの大きな坊主頭で、ぶ厚い鉄ぶちの眼鏡、ハナの下にはチョビヒゲを生やし、背広は買えず、ボタンだけつけかえた高師の学生服のままであった。
「インポータン・レッスン・ツー・ラン・イングリッシュ・カンバーセイション」が開講の口癖で、そういう慶太に生徒たちがつけた仇名は「インポ」であった。
この時期の四日市商業には、東の横浜商業学校、西の神戸商業学校に比肩するという名門意識が強くあったというが、授業は親切で生徒には人気があり、ユーモラスな仕種の小林先生は、しかし、「お前たちのように頭の悪い連中は……」と、頭ごなしに怒鳴り上げ、「グラマーの教科書を初めから終わりまで、根こそぎ暗記することだ。それ以外に方法というものがなさそうだ」と、とうてい無理なことをも口にする厳しい教師でもあった。
4月に四日市商業に赴任した慶太は、5月の末には、思い切りよくと言うべきか計画的にと言うべきか、愛知県の陸軍守山連隊の六週間現役に志願し入隊した。この頃、師範学校の卒業生には短期現役といって6週間現役に服すると、兵役免除の恩典があった。
慶太の狙いは、徴兵されて1年も1年半も兵営生活を送ることを避けるためであり、予定通り6週間で除隊した彼は四日市商業の教壇に戻った。
教壇に戻った慶太ではあったが、彼自らの言葉を借りると、校長はじめ同僚がいかにも低調で、バカに見えて、彼らとともに仕事をしていこうという気は失せてしまったという。
これではいかん、一つ最高学府の大学を出て、世の中と勝負してみてやろう、と決心した慶太は、明治40年の4月か5月、四日市商業に辞表を出して上京、9月に東京帝国大学政治学科の専科に入学し、10月には、当時難関中の難関とされた第一高等学校の卒業検定試験を受けた。その試験はなかなか大変で、機械体操で大いに苦しんだが幸いにも合格し、小林慶太は直ちに東京帝国大学法科大学本科(政治学科)の学生となることができた。時に小林慶太は25歳、普通なら大学を卒業する年齢である。
ところが、東京帝国大学法科に在籍してさほどの日かずもたたないうちに、慶太は金に困り始めた。当時、六畳一間の下宿代は10円足らずであったが、そのあても直ぐに無くなった慶太は、自分の一存で四日市商業を退職し、両親には事後報告で勝手に上京してしまった以上、今さら金を送れなどと、馬鹿なことを言えたものではなかった。
窮して思案した挙句に、小林慶太が向かった先は下宿先の本郷とは目と鼻の先の小石川区下富坂の講道館であり、その館長室で恩師嘉納治五郎に面会したのである。
コチコチになって最敬礼する慶太から優しく事情を聞いた嘉納治五郎は、2、3日待つように言って慶太を帰し、3日目の夜いきなり慶太の下宿を訪ねた嘉納は、慶太の部屋で自らが持参した牛肉を鍋にして共に食べながら、この上ないとも言える家庭教師の口を持ちかけてくれたのである。
その条件とは、慶太には専用の一室を用意し、三食は家族同様にするほか、大学の学費一切を負担するというものであった。
慶太が家庭教師として住み込む家の主は、元東京帝国大学法科大学長、法学博士、日本民法の起草者にして男爵、貴族院議員の富井政章(まさあきら)であり、その家で慶太が指導する相手は、富井の息子で東京高等師範学校付属中学4年生の富井周(あきら)であった。
富井政章は、慶太に対して書生が普通しなければならない雑用の全てを免じ、奉公人たちにもその旨を伝え、倅の家庭教師と言う立場を明確にしていた。
ところが、慶太は7時前に庭男たちと一緒になって掃除を手伝い、夜は周の部屋で勉強を厳しく監督した後、自室に戻って自分の勉強を2、3時間した。その結果、慶太の睡眠時間は僅か3、4時間の日々が多かったという。
周の甘えには一切妥協せず、富井家の書生ではなく厳格な家庭教師としての立場を貫いた慶太の指導の結果、周は翌年、仙台の第二高等学校に目出度く合格した。その上、慶太は周と一緒に仙台に行って、二高校長三好愛吉先生が慶太の母校である松本中学校(現松本深志高校の前身)元校長であったことから、三好校長自らが監督している二高明善寮に周を入寮させる手筈も整えたのであった。
やや甘い息子をきっちり指導し切って、そこまで誠意を尽くす慶太に対して、富井政章は親として嬉しくないわけがなかった。
その後、富井周は東大に入学、外交官試験にも合格(同期7名)して外務省に入り、サンフランシスコ総領事、アルゼンチン大使を務めた。
東大在学中はかなり勉強した小林慶太が最も感銘を受けたのはサミュエル・スマイルズの『自助論』(中村正直訳)で、その中の「天は自ら助くるものを助く」という一句を慶太は生涯の座右銘としていた。
慶太に対して謝意を表し「卒業するまで従来通り学資はだすから……」という富井政章の好意に甘えて、もはや指導する相手がいなくなった富井家に居候することは慶太の自尊心も許さず、残り二年の東大生活の算段を始めた慶太は、再び大きな幸運に包まれた。
東大法科掲示板に、陸奥(宗光)伯爵奨学資金給与生募集の案内を目にした慶太は、その詮衡委員に対する自らの推薦を富井政章にお願いしたのである。
快諾した富井は、その給与生詮衡委員五人の中の詮衡委員長である加藤高明にあてて、小林慶太の紹介状(推薦状)を書き、電話もしてくれた。
この時、駐英大使としてロンドンに赴く(明治42年2月)直前であった加藤高明は51歳、既に40歳(明治33年)にして第四次伊藤博文内閣の外務大臣を務め、前々年(明治39年)1月から2ヶ月ほど二度目の外務大臣(西園寺内閣)を務めたばかりであった。
大正時代には二度に亘って内閣総理大臣に就任した加藤高明は、東大法科を主席で卒業、三菱に入社して岩崎弥太郎の長女春路を妻としながら、陸奥宗光の推挙によって外務省に入った経歴の持主であり、明治から大正にかけての日本政界においては、その明晰な頭脳と、剛直な性格とを以て知られた人物であった。
富井政章からの推薦状や電話のせいもあろうが、緊張して加藤高明邸を訪問した小林慶太との短い会話の中で、加藤は小林慶太の人物(資質)をすぐに認めてくれた。               
富井家と同様、専用の一室を与え、食事は家族と同様、東大の学資を出してくれる上に、ロンドンに連れて行かず留守宅に残す令息加藤厚太郎の家庭教師としての月謝25円を提示した。
東京市の区立小学校教員の初任給が13円の時代であったから、小林慶太は加藤高明のお陰で、かなり裕福、豪勢な東大生となった。
かくして小林慶太は明治44(1911)年7月(29歳)、東京帝大法学部政治学科を卒業した。
東大法科の同期生には芦田均(後に首相)、重光葵(後に外相)、正力松太郎(後に読売新聞社主、科学技術庁長官、講道館十段)、石坂泰三(後に経団連会長)らがいる。
東大卒業と同時に、東大教授・岡野敬次郎、同・富井政章、そして加藤高明の推薦で農商務省に入省、同年11月には、高等文官試験の行政科に合格、小林慶太は高等官となった。
大正2年、農商務省から鉄道院に移った慶太は、そこに9年間いて最後には課長(高等官七等)を一年半務め、大正9年5月11日(38歳)、武蔵電気鉄道常務に就任するため鉄道院を辞し、官吏としての10年間の生活に終止符を打った。
冒頭紹介したように、五島万千代との結婚によって慶太が五島慶太となったのは、鉄道院に移る前年の明治45年2月24日のことであった。
前述したように、明治40年、25歳の小林慶太は一念発起し、奮励努力の結果、「難関中の難関」とされた第一高等学校卒業検定試験に合格し、最高学府、東大法科の学生となる目標を達成した。
そういう慶太が、学資に窮して救援を仰いだ嘉納治五郎は、正に「天成の教育家」であった。
既に当コーナーにおいて、「嘉納塾の竣傑、杉村陽太郎の見識」と題して何度もお話したように、嘉納塾や講道館に10歳代の幾多の俊秀を預かり、訓育して多くの逸材を育て上げた嘉納治五郎は、学資に窮して自分を訪ねてきた東大生小林慶太の人物(資質)を、見抜き、見極めていたと言えよう。
相手を投げ落とし、あるいは組み伏せようとする時、その攻防(場合によってはねじくりあいに堕する)の中で、人は本性(人間性)を曝け出さざるをえない。
23歳で講道館長となり、西郷四郎や富田常次郎、山下義韶ら幾多の門弟を、自らの身体を以て鍛え上げた師範としての嘉納には、瞬時に人を見抜く高い能力が備わっていたはずである。
それ故にこそ、自ら慶太の下宿先を前触れもなく訪ねる挙に出て、富井男爵家の家庭教師という、東大生小林慶太にとってはこの上無い生計の道を用意してくれたのである。
「難関中の難関」と言われていた「第一高等学校卒業検定試験」を、東京高師卒業生である小林慶太が見事にクリアーして東大生になったことが、嘉納にとっても嬉しかったのではないか。
延べ300名余りの嘉納塾塾生の中で、当コーナーにおいて筆者が敢えて「俊傑」と冠して紹介した杉村陽太郎、あるいは9歳で嘉納塾に入塾して後に講道館第二代館長に就任した南郷次郎海軍少将や、その弟南郷三郎、そして徳川慶喜の七男(庶子)であったが後に徳川公爵家を継承した徳川慶久(旧名久)等々、全て10代前半からの寮生活(集団活動)の中で、嘉納の膝下において「人」となった人々である。
日露戦争で壮烈な戦死を遂げた海軍軍人広瀬武夫少佐、湯浅竹次郎少佐は講道館の猛者でもあり、二人とも海軍軍人としての短い生涯において、常に嘉納治五郎師範を敬慕して止まなかった。
余談になるが、明治30年、都筑馨六(つずきけいろく)が新たに文部次官に就任するという噂を耳にした高等師範学校長嘉納治五郎は、都筑とは幼少から一緒にいて親しく、その長所は十分に認めながらも文部次官としては不適任であると信じて、本人に書面をもって文部次官就任を辞退するよう忠告した。
これに対して何の挨拶もしない都筑に怒った嘉納は、東大総長(浜尾新)、高等商業学校長、高等工業学校長ら有力直轄学校長らが皆、都筑の文部次官就任には不同意であることも確認した。
そこで嘉納は文部大臣蜂須賀侯爵に対して、都筑を文部次官にするということは不適当であるということを告げたところ、大臣は不得要領な返事をしていたという。
更に進んで嘉納は、松方正義首相、大隈重信外相、高島拓殖務相、西郷従道海相、その他の大臣に都筑が文部次官としては不適任であるということを力説して、騒ぎは大きくなった。
そうこうするうちに都筑馨六は文部次官に任命され、嘉納は、都筑の如き人物が文教の府において枢要の地位を占むるようでは、我が文教上すておけぬと、こんどは文部省とその責任者である文部大臣の攻撃を始めた。
これによって明治30年8月20日、嘉納治五郎は非職となった。官吏としての地位(高等官三等)はそのままで、高等師範学校校長という職務をはずされたのである。
嘉納は非職とはなったが、この騒ぎの結果、文部大臣蜂須賀茂韶侯爵は更迭され、新しい文部大臣には嘉納の同志でもある東大総長浜尾新が就任、当然、都筑文部次官も更迭されて、専門学務局長菊池大麓が次官に就任した。
蜂須賀茂韶は、オックスフォード大学を卒業して明治12年帰国、外務省に入って駐フランス全権公使などを務め、この騒ぎの際は、文部大臣と貴族院議長を兼任していたが、この後、枢密顧問官(終身)に転じた。
明治30年11月19日、嘉納治五郎は非職になって3ヶ月で高等師範学校校長に復職を命じられ、元の椅子に戻った。
因みに都筑馨六は東京開成学校から嘉納と同級生であり、開成学校改め東京大学文学部第二期生(同期6名)として、嘉納と同じく政治、経済を学んで明治14年東大を卒業した。
翌年からドイツに留学、ベルリン大学で学び明治19年帰朝、外務大臣秘書官となり、その後フランスに留学、明治23年には内閣総理大臣秘書官に採用され、嘉納との角逐が始まる前は、図書頭(宮内省図書寮の長)、外務省参事官の地位にあった。
文部省を追われて1年後、半年ほど外務次官をつとめ、その後は10年間貴族院議員であった都筑馨六の妻光子は、元老井上馨の娘である。
10代半ばの開成学校時代から、同期6名の東大文学部卒業まで、同級生として都筑を知り抜いていた嘉納は、「文部次官はその人格が文教の中心人物としてふさわしきもののなかから採用すべきである」という一点において、都筑文部次官就任反対運動の先鋒を努めたのである。
その後も柏田文部次官との意見対立をめぐる一件があって、二度目の非職(職務停止)となってもビクともしなかった嘉納治五郎は、前述したように明治44年7月、大日本体育協会(日本体育協会の前身)を創設、自ら初代会長に就任した。
早稲田大学教授安部磯雄(早大体育部長、野球部長、後に社会民衆党党首、日本学生野球連盟初代会長)らと相談してのことであった。
翌明治45(1912)年夏、第5回オリンピックがスェーデンの首都ストックホルムで開催され、これに初参加することになった日本政府は、選手団長として嘉納治五郎を、選手としてマラソンの金栗四三(東京高等師範)と陸上短距離の三島弥彦(東京帝大)の二人を派遣した。
蛇足ながら、三島弥彦は、保安条例による弾圧の責任者であった警視総監三島通庸の三男であり、その兄(長兄)は日本銀行第八代総裁を務めた。三島弥彦自身は、当時の日本人としては長身で、東大に入る前の学習院においては野球部のエースとして鳴らし、柔道も二段という、いわばこの時代の万能選手であった。
28の国と地域、2490人(15競技、108種目)の選手が参加した開会式で、行進する選手が僅か二人の日本選手団には粛条の観があり、かえって観客の同情をひいたと日本国内では報道された。
後進国日本のオリンピック初参加の結果は惨憺たるものであったが、ここからが嘉納治五郎の真骨頂であり、飛行機もない時代に幾たびも欧米を訪問したアジア人初のIOC委員嘉納治五郎は、昭和13年、高齢(79歳)をおして長駆エジプトに向かい、ナイル河船上におけるIOCカイロ会議において、昭和15(1940)年の東京オリンピック招致を最終的に勝ち取ったのである。
生涯の目標を貫徹した嘉納治五郎は、カイロ会議において日本に好意的であったアメリカ合衆国IOC委員に礼を言うために、アメリカ廻りで帰国の途につき、もうじき日本の島影を見ようかという昭和13年5月4日、当コーナー(2006年12月23日付)で言及したように氷川丸船中で病没した。
ストックホルムの屈辱から26年の歳月が経っていた。
嘉納が創始した講道館柔道という「武道(格闘技)における革新的なシステム」は、数少ない日本発世界標準として、今や単にオリンピックの一種目であるばかりでなく、世界中にサッカーに次ぐ900万という競技人口を擁する地球文化の一端となって、嘉納治五郎の足跡を永遠に残している。
当サイト卓話室Tシリーズ15で詳述したように、他者(外人)が自分たちより勝れていると信じたがらない、内向きでひ弱な「島国根性」とは全く無縁の、「自由闊達な精神と高邁な見識」に貫かれた嘉納治五郎の生涯は、正に「日本近代化の申し子」と呼ぶに相応しい一生であった。
嘉納が鼓吹する「なあにくそッ」の心がけ、負けても「なあにッ」勝っても「なあにッ(これしき)」、勝っても負けても「なあにッ」の精神こそは、嘉納塾の俊傑杉村陽太郎が、「日本国弥栄(いやさか)の道」を切り開くべく提唱した「エクセレンス(Excellence)の精神」、即ち「卓越を求めて絶えず向上する精神」の母体であった。


6、恩人富井政章、加藤高明
写真に見る五島美術館庭園(敷地6000坪)は、周知のように五島慶太の屋敷跡であり、元の敷地は1万坪であったという。
そして、その五島邸の居間には、加藤高明夫妻の大きな写真が掲げられており、経済評論家三鬼陽之助は、富井政章夫妻の額も掲げられているはずであると言った。
五島慶太はその富井政章について、「富井政章という人は、フランス育ちの民法学者で富井さんに会ったら、どんな人でも頭が下がるというくらいの人格者であった。この人から受けた感化は、非常に用意周到、懇切丁寧ということであった。」と述べている。
一方の加藤高明に関しては、「彼は実に傲岸不遜でワンマンで、そして自ら剛堂という号をもって、人の意見等は少しも聞かないようであった。農商務大臣の大浦兼武や(内閣)書記官長で警視総監でもあった伊沢多喜男氏でさえも、彼の前に出ては巡査が警視総監の前に出たようなものであった。一歩も譲らない人であった。だから、それから受けた感化というものは非常に大きい。」と言っている。
「強盗慶太」と呼ばれた五島慶太の傲岸不遜は、「剛堂」こと加藤高明伝来のものであった。
東大法学部在学中に、こういう二人の人物の薫陶を受けた五島慶太の鉄道事業を中心とした怒涛の企業買収や、「予算即決算主義」という経営哲学等々について、今さらここに言及する必要はないと思います。
渋谷に東京初のターミナルデパート東横百貨店を開業したのは昭和9年のことであったが、翌昭和10年9月に病没した富井政章博士が、その病床にあった四十余日間、五島慶太(53歳)は一日も欠かさず病床を見舞い、富井家の家計を助け、葬儀費用も彼が出したという。
富井家の遺族は政府から三万円の扶助料をもらったが、五島は、それを銀行預金などにしておくのは金利が安く不利益であるから、当時、一割配当をしていた目黒蒲田電鉄の株に投資することをすすめた。そして、配当が一割を割るようなことがあれば、差額だけは自分が負担して、必ず一割に廻して差し上げる、という一札をいれて、富井家遺族に目蒲の株を世話した五島慶太であった。


参考文献
東京高等師範学校一覧 明治30至31−44至45年東京高等師範学校刊
嘉納治五郎著『嘉納治五郎―私の生涯と柔道』1997年日本図書センター刊
『柔道』講道館刊昭和27年2月号
『国士』第拾号(明治32年7月)、第拾壱号(明治32年8月)講道館刊
日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人T』
平成16年復刻版日本経済新聞社刊
広瀬仁紀著『飛龍の如く―小説・五島慶太』1996年光文社文庫
三鬼陽之助著『五島慶太伝』昭和29年東洋書館刊
菊池久著『光芒と闇 ―「東急」の創始者―五島慶太・怒涛の生涯』
                     昭和63年経済界刊
参照
ウィキペディァ フリー百科事典;古市公威;久米民之助;尾崎行雄;矢野龍渓;保安条例;福原麟太郎;三島弥彦;ストックホルム・オリンピック
ウェブサイト{42}都筑馨六









学長の 訓示専ら なあにくそ