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嘉納塾の俊傑、杉村陽太郎の見識(その5)―杉村と米内光政

マッカーサー元帥が「濠端天皇」とも呼ばれて君臨したGHQ跡

シベリアに帰るのはいやになったか、2羽の白鳥

第一生命ビル玄関に書かれた立派な筆跡の社名
2009年09月04日(金)
道場主 
[東京都]
千代田区
東京は日比谷の、濠を隔てて皇居と向き合っている第一生命ビルにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が設けられ、そこの主ダグラス・マッカーサー将軍を、一部の人々が昔実在した堀川天皇をもじって「濠端(ほりばた)天皇」と陰で呼び始めた頃の話を紹介したい。蛇足ながら付言するとダグラス・マッカーサーは実は25歳の時、東京に勤務する父アーサー(駐日アメリカ公使館付武官、後にアメリカ陸軍最高位の陸軍中将)に呼ばれて2,3日、日本に滞在したことがあって、コーンパイプをくわえて降り立った厚木飛行場が彼にとって初めての日本ではなかった。阿川弘之氏の名作『米内光政』の終章において、東京銀座の教文館ビル3階にあった医師武見太郎(後に日本医師会会長)が経営する武見診療所内のエピソードとして以下のような記述がある。
『……岩波重雄のすじと牧野伸顕吉田茂のすじとで、武見診療所には色んな人が来る。敗戦の時亡くなった西田幾太郎も患者であったし、下村海南、永野修身、豊田貞次郎も患者であった。教文館三階の待合室で、久しぶりに思いがけない旧知と会うのが、米内は楽しみらしかった。
 気分を楽にしてもらうため、診察室でよく世間話をした。時々それが、若い「喧嘩太郎」の方で議論を吹っかけるかたちになった。米内は自分からいくさの話題を持ち出すのは、避けていたけれど、
「開戦前、海軍上層部の見通しはどうだったんですか。まさか勝てると思ってたわけじゃないんでしょう」
 武見が聞くと、
「軍人というものは、一旦命令が下れば戦うのです」
 と答えた。
「陸軍の支配下に伸びて行った日本の、偏狭な国粋主義思想は世界に通用するものではなかったけれども、日本には古来から日本独自の伝統思想風習がある。その上にアメリカ流の民主主義を無理にのっけようとすると、結局反動が来るのではないか。それを心配している。民族のものの考え方は、戦争に負けたからといって、そう一朝一夕に代わるものではない」
と、占領軍の日本民主化政策を批判するようなことを言うので、
「しかし、科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが出来ると思いますがね」
 物理屋でもある武見が反論すると、
「国民思想は科学技術より大事だよ」
と、言葉はおだやかだが謝礼を呉れない患者にしてはいやに迫力のある答えであった。……』
同じくこの『米内光政』終章の最後(第八節)に於ける米内の銅像に関する話の冒頭に、「日本が本当に復興するまで二百年」と米内が言った、そういう記述がある。今、この200年という数字で思い起こすのが、文久2(1862)年8月、徳川幕府海軍の創設に何年かかるかと第14代将軍家茂に質問された軍艦奉行勝海舟が、満座の中で500年と答えて評定をぶち壊しにした話である(当サイト卓話室Tシリーズ15の5頁参照)。因みに、日本海軍の責任者としての初代海軍卿勝海舟から数えて25代目の海軍大臣が米内光政であった。戦後日本の復興(立ち直り)は阿川も言うように米内の予想よりはるかに早かったばかりでなく、高度経済成長によって日本はG7とかG8とか呼ばれる国の一つにはなった。物質的(表面的)にはそういう国家の一つにはなったが、世界中から日本に来る留学生の数は米英仏のそれに比べて段違いに少なく、外国から学ぼうとする世界の人々は競って米英仏に行き日本に来る人は少ない。敗戦後64年が経ち、(第二次)世界大恐慌とでもいうべき社会経済状況のさなか、よくよく考えてみると、米内の予言(予想)は当たらずとも遠からず、ということではないか。「国民思想は科学技術より大事だよ」、という米内の言葉を改めて噛みしめ、経済大国等の言葉に幻惑されて伏在化し、露呈することを免れて来た日本社会特有の問題を、今こそ国民がきっちりと認識すべき時が来たのではないか。
昭和19(1944)年7月18日、東条内閣は総辞職し、この日午後、宮中で重臣会議が開かれ、次の総理にもう一度米内をという声が出て来たという。その際、米内は次のような要旨の発言をしたという。
「自分は軍人と云ふものは作戦統帥のカラに入りて専念之に従ふを本旨とすと考え居り、政治は文官が当たるが至当なり。今度は陸軍、次は海軍等と源平の如くなるは宜しからず」
「自分では一ヶ月持てずと思ふ。嘗っての自分の経験から見て、却って御迷惑をかけることと思ふ」
「軍は要するに作戦に専念すべきものなり。元来軍人は片輪の教育を受けて居るので、それだからこそ又強いのだと信じて居る。従って政治には不向きなりと思ふ」
これに対して、既に二度(昭和2年、昭和6年)内閣総理大臣の地位にあった若槻禮次郎が、
「米内閣下の御説は一応御尤もなるが、英米の如き習慣のあるところとは違ふ。国民も其点で養成せられず、日本で一躍そこに行くのは困難と思ふ」
と、取りなすような発言をしたという。
正に、語るに落ちる、とはこの時の若槻の発言ではないか。当サイト卓話室Tシリーズ15で縷々お話したように近代日本第一の英傑勝海舟は、封建制度(門閥制度)という因襲の真っ只中で、「社会正義」そして「公(おおやけ)」という概念を前面に打ち出した、真の「俊異卓抜」、一代の奇傑であった。因循姑息、頑迷固陋の幕閣に怒った勝は、「それ政府は、全国を鎮撫し、下民を撫育し、全国を富饒にし、奸を押え、賢を挙げ、国民その向うところを知り、海外に信を失わず、民を水火の中に救うをもって真の政府と称すべし、たとえば華聖(ワシントン)氏の国を建つるがごとく、天下に大功あって、その職を私せず、静撫よろしくを失わざるは、誠に羨望に堪えたり。威令の行われざるは、私あるを以てなり。奸邪を責める能わざるは己、正ならざればなり。あにただ兵の多寡と貧富に因らむや。この故に言う。天下の大権は一正に帰すべしと。……」と喝破し、ケツをまくったかたちで一旦幕府を去ったが、その後の勝の行動についてはテレビドラマ(昨年のNHK大河ドラマ『篤姫』)等によって今や天下周知である。咸臨丸の艦長としてサンフランシスコに20日足らずの滞在をした勝は、造船技術や製鉄技術、鉄道その他のインフラ整備といった表面的で到達(模倣)可能な問題とは次元を異にして、もっと根本的、根元的で100年や200年では追い付けそうもない「国民の政治意識」の差を痛いほど感知したはずである。明敏犀利な勝はこの最重要問題については、焦るよりはむしろ諦めに近い心境でサンフランシスコを出帆し帰途についたのではないか。他方、勝艦長の咸臨丸に乗船した遣米副使兼軍艦奉行木村摂津守の従者として乗り込ませてもらった福澤諭吉は、サンフランシスコにおいてアメリカ合衆国における人と人との関係、その行き着くところの人々の「政治意識」に触れて、正に「目からウロコ」の思いがした。明治維新以後、「衆心発達論」を高々と掲げた福澤は『学問のすゝめ』や『文明論之概略』等々によって委曲を尽くし、口をすっぱくして「国民の智徳の向上」即ち「日本国民の封建的メンタリティー排除」を目指し、啓蒙活動に大車輪の生涯を送った。『学問のすゝめ』は明治初期における大ベストセラーとなったが、日本国民の学習進度は牛のようにゆっくりで、「天は人の上に人を作らず」とかいう空疎単純な言葉のみが独り歩きをし、今日の日本国民の大多数も、未だに福澤の説くところを真に学習したとは言い難い状況である。底流において、「依らしむべし、知らしむべからず」という態度の一方、「長いものには巻かれろ、太いものには呑まれろ」という態度が並存し、「権威主義」と「事大主義」に助さん格さんのように支えられている日本社会でもある。前述した若槻禮次郎の米内に対する「米内閣下の御説は一応御尤もなるが、英米の如き習慣のあるところとは違ふ。国民も其点で養成せられず、日本で一躍そこに行くのは困難と思ふ。」という発言こそは問題の本質、核心を図らずも暴露した言葉といえよう。この若槻の言葉に対して米内は、
「今正さざれば、国は滅びる」
と答えたとされている。
「……国民が其点で養成せられず、日本で一躍そこに行くのは困難だと思ふ。」と言った若槻禮次郎は、東大法学部を驚異的な成績(首席)で卒業したとされているが、それではいったい若槻は何年経ったら「日本がそこに行ける」と思っていたのであろうか。米内が予言した200年後か、あるいは勝がハッタリ気味に語った500年かかるものであろうか。
今ここに改めて、日本復興まで200年と予言(予想)した米内光政提督の雄勁なバックボーンの一端、その優れた資質の片鱗に触れてみたいものである。大正4(1915)年から2年余り第一次世界大戦のさなか、海軍少佐米内光政はロシア駐在武官補佐官としてサンクトペテルブルグに駐在した。当時のロシアは当コーナー杉村陽太郎の見識(その4)で言及したように英仏と共に日本にとっては同盟国であり、最終的には4次に亘って改定された「日露協商」もあって、日露両国間の雰囲気はかなり友好的かつ親密なものであった。その後大正7年から1年余り政治体制が変わってしまったソ連邦ウラジオストックに駐在、大佐となって大正9年から10年まではベルリンにも駐在したが、米内はドイツ人を好きになれなかった。その理由については機会があれば言及したい。大正14年12月1日には海軍少将第二艦隊参謀長に任ぜられ、大正15年12月1日、海軍軍令部参謀兼海軍艦政本部技術会議議員に補された米内は、翌昭和2年3月2日支那及びシベリアへ出張を命じられ4月1日に帰国した。程なくして昭和2(1927)年6月1日発行の雑誌『外交時報』に、海軍少将米内光政(47歳)が「露国革命の論理観(露国内戦と外交関係に就いて)」と題する論文を発表した。この論文において米内は共産主義政府の十月(1917年10月―筆者注)以後数年間を総括し、
一、外交、軍事政策は成功したと見られる
二、対内政策は概ね不成功に終わった
三、経済政策は全然失敗に終わった
と結論したが、ソビエト政権の外交政策を論ずる中で米内は次のように論じた。
「……実際労農政権の苦心したことは如何なる名目をもって国内反軍に対抗するかといふことであった。凡そ国際戦に於ける戦争目的は頗る明瞭であった。曰くアルサス、ローレンス、曰くガリシャ、曰くダーダネルス、これ丈で十分である。然しながら兄弟相戦ふ場合に『兄弟殺戮』という看板を掲ぐる訳にはいかない。そこでどうしても戦争の熱望を喚起せしめ、飽くまで犠牲たるを厭はざらしめ、地獄のような残忍を敢えてせしむ為めには、そこに幻影的な大理想を標榜することが必要となる。例令ば米国に於ける奴隷解放の戦争に於て、人々は奴隷制度に代ふるに、資本主義制度を以てするといふことには考を置かずに、只だ将来平等と正義の時代が来るといふ抽象的の信念を以て戦ふた。又一七九二年乃至九四年仏国に於ける、革命戦に於ては、革命は真実の自由と友愛とを齎すものであると確信して戦はれたので、若し人々に素面で冷静に『吾人は生活向上の一段階たる封建制度をばより高き階段に位する資本主義制度に代ふる為めに戦ふものである』などと標榜しようものならば、とても大業成就に必要なる死を顧みざる底の大精力を要求することは出来ないのである。
歴史は民衆といはず指導者といはず、あらゆる人々の頭に千年萬年の治世は直ぐ眼前に待って居るかの幻影的感興を起さしめ、しかも歴史それ自身は斯る治世の出現に盡力して居るかの如く思わしむる。斯くして人々の頭に人類愛とか神聖な圧制憎悪とかいふ信念が生れ、やがて宗教的逆上となり、血眼となり腕は鳴り出し、已むに已まれぬ気持ちになって、茲に燃え猛ける民衆は英雄的巧妙手柄を成し遂ぐることになるのである。斯かる現象を称して『革命の働き』とでも名づけんか。而してこの『革命の働き』は露国革命に於て如何に働いたであろうか。これ革命を研究するものの最も興味を覚ゆるところである。……」
こういう論文の書き手であった米内は、首相となっての議会答弁はパッとせず、「いつも抽象的なことしか言わない用心深い米内首相」とか言われ、米内内閣は「無性格内閣」とも呼ばれていたという。しかしながら、政治の素人とはいえ、米内光政は「幻影的な大理想を標榜して」国民を煽るような品性の卑しい人物ではなかった。この時期、それだけでも日本史に残る大人物ではないか。満州事変、国際連盟脱退後の日本国においては、世界に通用する良識や品格、知性を有する指導者は稀有の存在となり、たとえそのような指導者が現れたとしても、滔々と流れる濁流に抗して船を漕ぐことは最早不可能であった。日本国自体があたかも「濁流に浮かぶ舵の効かない船」のようなものであった。如何なる指導者をも押し流し、呑み込んでしまう濁流の正体は、低劣な世論の充満による愚劣な国民感情の噴出である。昭和5年ロンドンで海軍軍縮会議が開かれ、日本政府全権の財部彪海軍大将がロンドンからシベリア経由で帰国した日、東京駅のプラットホーム、丸の内のオフィス街には、
「売国奴財部を葬れ」とか
「英米の前に拝跪して国を売り君命を辱めたる降将財部。速やかに自決して罪を謝せ」
とか書いた檄文が何百枚も撒き散らされたという。
高田万亀子氏の労作『静かなる盾・米内光政』に序文を寄せた阿川弘之氏は、
「日本人というものがつくづくいやになる」
これは、満州事変あたりから昭和二十年夏の徹底敗北まで、十数年間にわたる我が国の現代史を顧みて、今、誰しもが抱く感慨であろう。軍や政界、言論界の要職を占め、日本を代表する一国の指導者と目されてゐた人たちが、よくもまあ、あれだけ内容空疎なことを居丈高に言ひ立て、理性的な意見に対してはほとんど藉す耳持たず、事ある度「愚か」としか評しようの無い道を選び取り、それを国民に押し付け、「進め一億火の玉だ」の掛け声のもと、国中焼野原にして国家崩壊の寸前まで追ひつめてくれたものだと―。……」と述べている。
いったいどうして、日本は、そして日本人はあのようにお粗末でヒドイことになってしまったのか。無条件降伏後64年、大混迷とでも言うべき社会経済状況の中で、今、日本国民は前述した米内の「復興200年説」、あるいは勝海舟の「近代化500年説」までをも視野に入れた「自己検証」の時を迎えているのではないか。近頃日本の政治経済社会状況、総じていえば「世相」に関して話が及ぶ時、「新聞が悪い」、「テレビが低劣だ」、と言うような言葉を吐き捨てるように言う方々が少なくない。だがしかし、「マスコミは国民を写す鏡である」という言葉を、アメリカでは高校生も口にしている。
作家豊田穣は海軍兵学校を卒業(68期)、空母飛鷹所属の艦載機パイロットとなった。昭和17年4月、九九式爆撃機を操縦してガダルカナル島の飛行場を攻撃した際、撃墜されて捕虜となり、アメリカ本土の捕虜収容所を転々として昭和21年3月帰国した。その後新聞記者から作家に転じた豊田は、自ら「艦載機乗り」として従軍した太平洋戦争に日本が突入した遠因を次の五つに絞って指摘した。
1、明治維新によって、薩長藩閥政府が、公方様に代わる尊崇の対象を天皇家に求め、この為、宗教的な天皇崇拝主義を国民に植えつけ、軍隊をも天皇直属の軍隊とした。
2、日清戦争で勝って中国を馬鹿にする風潮を生じ、〜海の向こうにゃシナがある。シナにゃ四億の民がある、〜おれもゆくから君も行け、狭い日本にゃ住みあいた……と大陸侵略の気風を強めた。
3、日露戦争は、海軍は勝ったが陸軍の勝負はまだついていなかった。しかし、政府は大捷であるとし、日本は五大強国の仲間入りをし“東洋の盟主”であると自称し、東アジアを支配する勢いを示して、英米の反感をかった。
4、第一次世界大戦で漁夫の利を占め、英米と共に三大強国の仲間入りをして富強になったように思い込み、日米未来戦などを考えるようになった。しかし、国内は反動で不況に陥り、前近代的な経済体制は、武力を背景とする大陸進出を必要とするようになる。
5、政党官僚の腐敗が国民の信頼を失うようになる一方、“昭和維新”と称する政治の革新を唱える右翼、青年将校グループが擡頭した。そして、政治、経済、外交のゆきづまりを、クーデターと天皇親政のファッショ政権確立によって打開しようとするに至った。
こう総括した豊田はここに至る前文において、「日本をあの戦争に追い込んだのは、日本を囲むいわゆるABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)それにフランス、ソ連を加えた諸外国の動きを別にすれば、日本という国家及び日本人それ自体の体質、そして、軍事よりむしろ、政治、経済、外交の性格や方向づけに問題があったのではないかと、私は考えるようになった。」と述べている。
翻って今、アメリカで証券会社の倒産をきっかけとしてGM、クライスラーが倒産する以前から、「失われた10年」とか15年という言葉が飛び交う中で、ついこの間まで、経済ニュースの冒頭には「戦後最長の景気上昇が続く中で…」等の言葉が臆面も無く使われていた。デパート業界の売り上げ高の推移が端的に示している日本経済の実情(実態)から目をそむけ、超低空飛行を続けるGNPの微細な数値を根拠にしてか、「景気上昇」なんていう言葉を使うところを見ると、六十数年前、お先真っ暗のツライ気分を払拭するために、毎日のようにウソ八百を発表し続けた「大本営発表」体質が、依然として日本社会の基調、底流であることが透けて見え、やりきれない思いである。定期預金の金利が実質的にゼロになって、もう何年になろうか。どうやら問題の核心は豊田穣が指摘したように、「日本と言う国家及び日本人それ自体の体質」であることを改めてきっちりと認識すべき時を迎えた、と言って差し支えないと感じる昨今の世相である。かって日本を敗戦と言う「破局」と、世界史にも珍しい無条件降伏という「屈辱」に追い込んだものは、「国民一人ひとりの国際感覚、政治意識」、そういう国民の間に醸成された「「国民心理」あるいは「国民感情」であった。昭和16年の初め頃、軍令部第三部長兼海軍報道部長前田稔少将は「いずれ米英と一戦交えざるを得ず。このまま相手の要求を呑んで頭を下げたら、日本は精神的に亡国になる。日米戦争が起こるとすれば、その責任は、陰に陽に新興日本の力を抑えようとかかって来たアメリカにある。」と思っていたという。これこそ正に当時日本の集約的国民感情であった。そして、そういう「世論」、「国民感情」の行き着いた先があの屈辱的破局であった。五大国の一つなどとうぬぼれ、虚栄心の固まりのようになった日本国民は、「大和民族は東亜の救世主たるべき運命を有せり(加藤寛治)」とか、「世界の動乱に際し、東洋の平和は一に我が帝国によって保障せられる(対支有志大会宣言)」のようなオメデタイ言葉に大半の日本国民が燃えていたのである。「国民を煽るための幻影的大理想」の典型とでも言うべき言葉であった。こういう動きに対して、「国家の滅びるは悪によらずしてその愚による」、と喝破したのは元経団連会長土光敏夫氏の母堂土光登美女史であった。昭和12年「日華事変」の始まった頃、愚かしい世の風潮を憂えて、土光女史は香典の前借をして資金を集め、女子教育のための各種学校を設立した。育児の任に当たる女子をしっかりさせ、レベルの低い政治意識から脱却させたいと願ったのである。あの当時、大部分の日本国民の政治意識のレベルは驚くほど低く、「金甌無欠の神州日本」などという言葉を、疑念も持たずに日常茶飯に口にしていた。その一方、島国根性はあくまで根強く、米内は別のところでそういう日本人の国民性を、「総じて躁急」と評していた。「総じて躁急」という国民性、「夜郎自大」「島国根性」「甘えの構造」等々、「絶東の小島の負の遺産」がドロドロに溶け、滔々たる濁流となって、良識や知性、品性までも押し流してしまったのである。
「国は戦場に於ける将士の武勇のみを以てその大を成し得ぬ。戦勝のみで大国は建てられぬ、国の大は人の大と同じく難局に処し徒に感情の俘虜とならず道理の命ずるところに向って直進するとき之を期し得るのである。牧人の笛に踊って懸崖から墜落する羊の群の如く野心家の煽動に乗って兵乱を事とする国民は如何に力強しと雖も断じて大国民ではない。」と叫んだのはフランスの大政治家ブリアンであった。外相、首相を歴任したブリアンの正に至言とも言うべきこの言説を紹介するのは、当コーナーの主人公、「日本が世界に誇る外交官」杉村陽太郎である。その杉村が事務次長兼政務部長を務める国際連盟の総会において、昭和8(1933)年2月24日、松岡洋右に率いられた日本全権団は満州問題に関する票決「42対1」という、外交戦においての徹底的敗北を喫した。敢えて言えば、これは日本にとって「第二の遼東還付」とでも呼ぶべき事態であった。今日の北朝鮮やイランのような立場に追い込まれた杉村の母国日本は、国際連盟を脱退して、「世界の孤児」となる道を選んだ。連盟を去って帰国した杉村は昭和8年、中央公論社から当コーナーで再三その卓越した見識を紹介した『国際外交録・杉村陽太郎の追憶』と題する論文集を上梓した。ここに再び同書から杉村の言を引用したい。
「新時代の国際競争に直面する日本の将来を想ふとき吾人の先ず考へさせらるゝことは時代の進運に処する日本人の政治道徳如何の問題である。議会政治普通選挙なる高楼を支え得るに十分な精神的土台如何の問題である。政治道徳的修養が国民にありや否やの問題である。公民としての権利と共にその当然の義務を理解し忠実に之を行はんとするもの六千五百万中果して幾人ありやの問題である。
日本に於ける労資の対立は明治以来官権に縋り事変に際して奇利を博した官商成金の徒と、社会経済、国民経済の何たるかを解せず権利の主張にのみ急であって義務の自覚に生くるを知らざる労働者との対立ではないか。従ってその争は無智な泥合戦に過ぎず、国民と国家とに禍するの外何等価値なきものであり、社会正義に対する良心的感覚の如き殆んど之を窺い得ぬのである。
更に国際道徳が幼稚なる一事に至っては国民にこの方面の修養殆んど皆無と称しても過言ではあるまい。半世紀前極東の一隅に孤立した日本が今や世界の大国として堂々と国際場裡に押し出したのを見るとき国際政局に処する精神的準備が余りに不十分なるを想ひ、吾人竊(ひそか)に憂慮せざるを得ぬのである。日本は文明国である。大国である。その文化に於て、国力に於て決して第二流国の班に列すべきものではない。然しながら自ら省みて深く吾等の心の奥を透視するとき果して大国民たる自覚に欠くるところなしと断言し得るや否や。(中略)日本は過去に於て幾十百万の忠実無比の将士を持った。然しながら現代の日本人が政治問題に、社会問題に、国際問題に高き見識と正しき態度とを執り得るに至らざれば日本は未だ真の立憲国、文明国一等国とは看做し得ぬ。
時代の進展に伴ふ国民道徳を涵養するが為には教育勅語に示さるゝ伝統道徳に加ふるに之を基調とし之が延長たる政治道徳、社会道徳、国際道徳を以てせねばならぬ。
選挙の何たるかを解せざる国民に代議政体の運用を託するを得ぬ。
社会主義に対する深き道義的理解なきものに労働争議や社会戦争に対する正しき解決を望むこと能はぬ。
国際道徳なき国民の通商や外交や戦争は人道と正義を禍し之を破壊するものである。」
「藩閥、官僚、軍閥、学閥の時代を経て日本の政治は党争殊にその背後の財閥横暴に苦しまんとする時代となった。金力を討滅するには人材を以てせねばならぬ。人材登用には選挙の革正が前提要件である。選挙の廓清には公民道徳の涵養を必要とする。即ち教育が根幹である。この事業たるや相当の成果を齎すまでには多くの歳月を要し、寿命旦夕を計られざるが為め兎角目前の急に策応して場当りの成功に焦る政党政治家等が自然閑却するに至るところであるけれども、誰か立って真面目に之に着手するにあらざれば国本を覆さんとする危機が迫りつゝある。
国家の建て直しには教育をおいて他に方法がない。然しながら教育は方便である、現代の世相に適応し之が規範たるべき国民道徳の大則が儼存するにあらざれば如何に教育を説いても空念仏と同じである。
士、農、工、商の階級が華族と士族と平民の名称は残るも名実共に消滅し去った今日国民は皆「士」を以て任ぜねばならぬ。
現時の「公民」とは往時の「士」の謂である。「政治道徳」とは「武士の道」即ち「国士の道」である。士の心なきものは以て日本国民を率ゆるに適せぬ。士の魂なきもの五人十人の店員をさへ悦服させ得ぬ。
士魂商才が新時代の商業道徳の要訣なるが如く選挙も亦士魂を以てすべく労資の協調、国際政治の運用も士魂を以てすべきである。要は時代の進運を解し伝統に生きるの道を求むべきである。
古の武士が平生自重し、変に遭っても平然たりしが如く今の代議士や選挙人や資本家や労働者は「士」の心を以て互に相許し信を以て事を行ふの美風を涵養し、濫に欧米の後塵を拝してはならぬ。若し夫れ軍事に至っては武は「戈を止む」即ち戈であり、禍乱の鎮定を終局の目的とする。黷武を戒めねばならぬ。従って如何なる強国と雖も正義我にありと信ずるときは断乎として之を打て、弱国たりとて妄りに侮ってはならぬ。」
熱誠をもってこのように説いた杉村陽太郎は、高い語学力と学殖、識見、とりわけ底知れぬ馬力の持主として疲れを知らず、国連事務次長として国連本部における諸外国からの部下数十人を文字通り「悦服」せしめていた。そして奇しくもその杉村陽太郎と前述の米内光政は、共に盛岡(南部)藩士を父としている。その上、両者のバックボーン形成の根幹には「講道館柔道」があった。杉村(明治17年生れ)は当コーナーの主人公として既に何度も言及したように、11歳頃から嘉納塾塾生として柔道を修行し一高東大を通じて学生柔道界の王者であった。対する米内(明治13年生れ)は旧制盛岡中学(岩手県立盛岡一高の前身)で柔道を始めたが、明治34年海軍兵学校卒業時には身長も180センチあって腕力はクラス一と言われ、兵学校柔道教官(吉村新六三段)と互角に渡り合える腕前であった。蛇足ながら当時の講道館では山下義韶と横山作次郎が共に六段で最高位にあり、兵学校に於ける四人の柔道教官のトップには胆付宗次四段がいた。日本で始めて教育機関として講道館柔道を「正課」に採用したのは、東京築地から江田島に移転したばかりの海軍兵学校であり、前述の財部彪や広瀬武夫、竹下勇、岡田啓介らが上級生で、八代六郎が教官となっていた明治21年のことであった。21世紀の今日、「日本発世界標準」として今や地球文化の一端をも担う講道館柔道であるが、高邁な見識と雄渾なる気魄をもってその講道館柔道を創始した嘉納治五郎は、東大文学部政治学科で学んだジョン・スチュアート・ミル伝来の、多面的で恐れを知らず、自由で合理的なバックボーンを有する青年となった。明治15年東大を卒業した嘉納(23歳)は、学習院教師に採用されるとほぼ同時に、講道館、嘉納塾、弘文館を創設した。学習院の職務を尽くしながら、嘉納は「非常な勉強」による自身の修行の一方、アルバイトとしての翻訳などによって資金を作り、講道館、弘文館の経営の為に金銭面での相当な苦労をした。これによって嘉納自らの言葉によれば、世の実務にあたり、人をあつかう道を覚え、奮闘努力の習慣を養成したという利益はあった。そういう努力の結果が、3,4年のうちに学習院教授兼教頭に栄進し、学習院と縁が切れたのちは五高、一高の校長を駆け足で歴任した後、文部省普通学務局長と兼任で高等師範学校(筑波大学の前身)校長を務めることにも繋がった、とも言えよう。明治22年嘉納の欧州視察まで7年間継続した弘文館における教師陣の筆頭は、東大文学部第2期生(同期生6名)としての嘉納の級友坪井九馬三(後に東京帝国大学文科大学学長)であったが、最も多くの学課を担当したのは嘉納本人であった。特色あるそのカリキュラムは、あくまで柔道を中心に据えて、ペインの心理学やジョン.スチュアート・ミルの経済学を盛り込んでいた。因みに、月曜日、水曜日の午前7時半から9時半までの「フィロソフィーエンドポリチックス」、午後3時から5時までの「少年に対する英語教授」と午後6時40分から8時40分までの「柔道修行」が嘉納の受け持ちであった。火曜日、木曜日の午前7時から8時の「ビル文集」、午後3時から4時の「ペイン心理学」、午後5時から7時の「柔道修行」と、金曜日の午前7時から8時までの「ミル経済学」を嘉納が担当した。更に土曜日は午前5時から5時40分まで「柔道」、午前7時から8時まで「ミル経済学」、午前10時20分から12時まで「柔道」、午後3時から4時まで「ペイン心理学」を嘉納が担当したのであった。この頃、嘉納は「精力」という言葉は用いず、「勢力之節約勢力之経済」という言葉をしばしば使っていたというが、学習院教授、更には教頭職を全うしながら、このように奮闘努力した嘉納は正に恐るべき精力の持主であった。時代は下って、米内の母校旧制盛岡中学では、戦時中、敵性国語の廃止がやかましくなっても、最後まで英語の授業を削減せず、陸軍の査閲官に、「盛岡中学は、板垣、米内、及川の三大将を輩出した学校なのにどういうことか」と渋い顔をされた、と阿川弘之氏が記述している。戦前から、国史の授業は「大化の改新」から始まり、生徒たちが「どうして天孫降臨や神武天皇御東征の話をしてくれないのか、と言っても「あれは歴史じゃないから」と教師が取り合わなかったという。自由で合理的な空気、あるいは反骨精神をその校風としていた米内の母校、旧制盛岡中学校であった。他方、土光女史の運営する各種学校においても戦時中、二世の女教師を雇い、周辺の白い目に抗して最後まで英語教育は貫徹された。同時代の数少ない実例として、「最後の海軍大将」井上成美が校長を務めた江田島の海軍兵学校においても、井上が昭和19年7月米内海軍大臣に仕える海軍次官として転出後も、同じく敗戦の日まで英語教育が貫徹された話は広く知られている。野球のアウトやセーフ、ストライクやボールという言葉さえ使用禁止という「愚かしい時代、狂った時代」であり、土光女史や井上海軍大将のように、「偏狭、低劣な世論」に抗してそういう意志を貫徹するには、大きな勇気を必要とする時代であったことを忘れてはなるまい。昭和2年、東京帝国大学国文科教授藤村作が「英語科廃止の急務」という論文を発表し、一気に英語存廃論が論議の的となった時、嘉納治五郎は率先して発足したばかりの日本英語協会の会長となった。文部省内に中学校の英語の時間数を半減しようとする意向があることを知って、嘉納は石川林四郎、岡倉由三郎、市河三喜、頭本元貞ら錚々たる英語教授関係者を招集して意見を聞いたという。
さて、共に盛岡藩士の子息、講道館柔道の強豪であった杉村と米内の見識を吟味するとき、前記論文において杉村が懸念した「日本人の政治道徳、社会道徳、国際道徳」と、米内が科学技術よりも大切だと強調した「国民思想」とは、全く同じ問題であることは今や明白である。前回(2009年8月1日付)当コーナーで言及したように、大正時代初めの日本国民は不安と不満でイライラしていた。日露戦争に勝って一等国になったつもりであったが、列強(英仏独米)は日本をそのようには遇せず、アメリカ(カリフォルニア)では日系移民排斥運動が高まりつつあったからである。そこに降って湧いたのが同じく前回当コーナーで言及した第一次世界大戦であった。これによって、揺らいでいた日本国民の「ナショナル・プライド」は回復し、フラストレーション、ヒステリーも解消した。明治時代に「関税自主権」を奪われ、「領事裁判権」を認めざるを得ないという屈辱的な半植民地状態が30年以上も続いたせいか、或いは「文明開化」の過程で味わった劣等感が作用したか、「傷つきやすく脆い精神構造」の日本国民が、ようやく「ナショナル・プライド」を手にした感じではある。だが、そこに大きな落とし穴があった。ニーチェも言う通り、狂気は個人にあっては稀有(けう)なことではあるが、集団・党派・民族・時代にあっては通例だからである。ドイツにはナチスなどという人種は存在せず、日本にも軍閥とか軍部とかいう人種がいたわけではない。日本中が「夜郎自大」に起因する「一億総外交音痴」の様相を呈し、「独ソ不可侵条約」締結程度の出来事に驚愕した。日本が最も国際人を必要としていた時、あの程度の事に腰を抜かし、ヨーロッパ事情を「複雑怪奇」などと評して内閣を放り出すような愚劣な指導者を戴くに至った日本国民であった。どうしてあんなことになったのか。我々はいかに不快であっても、事態(現実)を直視し、今、改めて自己検証をする時にさしかかっているのではないか。願わくば、「日米対等」等々、「幻影的な大理想の標榜」に繋がるような数々の言葉(キャッチフレーズ?)に酔ってしまって感情の虜となり、思わざる方向に突進する破目に陥って、遂には「懸崖から墜落する羊の群れの如くなり」、再び「一億総懺悔」となるような愚は避けたいものである。
参考文献
『日本外交人物叢書第8巻 国際外交録・杉村陽太郎の追憶』吉村道男監修
2001年ゆまに書房刊
阿川弘之著『米内光政』昭和57年新潮社刊
高田万亀子著『静かなる盾・米内光政』1990年原書房刊
実松譲著『海軍大将米内光政正伝−肝脳を国の未来に捧げ尽くした一軍人の生涯』2009年光人社刊
緒方竹虎著『一軍人の生涯 提督米内光政』1983年光和堂刊
横山健堂著『嘉納先生傳』昭和16年講道館刊
嘉納先生伝記編纂会編『嘉納治五郎』1977年講道館刊
嘉納治五郎著『嘉納治五郎―私の生涯と柔道』1997年日本図書センター刊
庭野吉弘著『日本英学史序説―英語の受容から教育へ』2008年研究社刊
豊田穣著『最後の元老西園寺公望』1982年新潮社刊

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