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旧岩淵水門(隅田川の起点)、土木技師青山士(あきら)の遺産

旧岩淵水門(通称「赤水門」)を横から、対岸は川口市

上流側からの眺め、右手前に金属製高さ10mの標柱が立っている

5番ゲートのみが船の通行可、後方(下流)には青い新水門が
2008年10月13日(月)
道場主 
[東京都]
北区
JR赤羽駅東口からスズラン通り商店街、北本通を横断、志茂5丁目から新河岸川を渡る

標柱最上部は昭和22年のカスリーン台風の水位を示す

赤水門遠景、人々の憩いの場
1910(明治43)年8月、長雨が続いた関東一円の主要河川の堤防は軒並み決壊し、荒ぶる荒川(旧隅田川)の氾濫による東京府の死者、行方不明者は369名、家屋全半壊流失1,679戸、浸水27万戸に達した。国技館で避難民が生活し、浅草寺には救護所が設置されるという騒ぎであった。これを受けて明治政府(内務省)は首都東京の抜本的水害対策として、現在の北区岩淵に水門を設けて上流からの水を堰き止め、余分な水を都心を通さず一気に東京湾に注ぎ込む策を立案した。そして岩淵を起点に足立区から墨田区と葛飾区の境を抜けて江東区と江戸川区の境である中川河口(砂町)まで達する幅500m、全長22kmの人工河川「荒川放水路」の建設を決定したのである。工事中の死傷者998名(うち死者22名)、19年の歳月を要した近代日本三大河川工事の一つである「荒川放水路」の完成によって、以後東京が洪水に見舞われることはなくなった。地方からの人口流入が続く大都会での20世紀最大の土木工学的実験とも言える壮大なプロジェクトであり、500万人を超える流域住民を救済するこの荒川「放水路」は、1965(昭和40)年、正式に荒川の「本流」とされ、それに伴い岩淵水門より下流の旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流が隅田川と区別されていたのである。その後1982(昭和57)年に至って、赤く塗装されているため「赤水門」と呼ばれている旧岩淵水門に代わる新岩淵水門が竣工し、青く塗装されて「青水門」と呼ばれている。老朽化が進み、地盤沈下(左右の不等沈下)も激しく、取り壊される予定であった旧岩淵水門、通称「赤水門」は、土木遺産としての価値が高く評価されて保存されることになった。平成7年には「推薦産業遺産」とされ、平成18年3月、東京都選定「歴史的建造物」の一つとなった。
岩淵水門の設計施工は荒川放水路建設工事の中では最も重要であり、とりわけ現場が底なしの軟弱地盤のため最難関工事の一つとされていたが、1915(大正4)年10月30日、その岩淵水門工事主任に任命されたのが、パナマ運河開削工事の経験を有する当時37歳の内務省土木技師青山士(あおやまあきら)であった。明治11年、現静岡県磐田市の素封家の三男として生まれた青山は資産もあって地方名士でもあった祖父によって東京の学校に進むことができ、尋常中学(後の府立一中、現日比谷高校)を経て第一高等学校(一高)に入学した。一高における寮の同室者の勧めもあって内村鑑三の講演を聞いた青山は、無教会主義を唱えた武士道的クリスチャン内村の門下生となることを決意する。内村の思想的影響や自らの次兄紀元二の助言から、青山は土木技術を人民救済策と位置付けて東京帝大工学部土木工学科に進学した。その東大ではひたすら学問と信仰の生活を送り、後年学会や教育界その他各方面で指導的役割を演じた内村門下の青年の間でも、青山は一目置かれる存在であったという。優秀な成績で大学を卒業して一ヵ月後の1903(明治36)年8月11日、青山はパナマ運河開削工事に従事すべく単身横浜港を発った。彼が地球の反対側、はるか異郷の地で展開されている「世界最大の土木事業」に携わろうと決意したきっかけは、明治36年6月発刊の「東京経済雑誌」に掲載された経済学会会員・峯岸繁太郎の講演筆記「パナマ運河視察談」(帰国報告)を読んだことにあった。すぐに相談を持ちかけられた東京帝大工学部土木工学科教授廣井勇は「日本は狭い。これからの日本人は大いに世界に雄飛せにゃならん。しっかりやりたまえ」と青山を激励し、自らの恩師であるコロンビア大学土木工学科教授ウィリアム・H・バアに宛てて紹介状を書いてくれた。バアはアメリカにおける土木工学の権威として大統領直属の委員会委員や顧問を歴任し、その上パナマ地峡運河委員を務めた人物である。青山に暖かく大きな手を差し伸べてくれた恩師廣井勇は、札幌農学校第二期生として同期生内村鑑三や新渡戸稲造、宮部金吾らと共に函館在住のメソジスト派アメリカ人宣教師ハリスによって在学中に洗礼を受けた。20歳で同校を卒業した廣井は明治16年12月、私費でアメリカへ渡航、ミシシッピ川改修工事に唯一の日本人技師として加わり橋梁や鉄道の建設に従事し、次いでドイツに渡りシュトゥットガルト工科大学において土木工学を学んだ。明治22年、7年ぶりに帰国した28歳の廣井は札幌農学校教授に就任、その後、小樽築港事務所初代所長を経て東京帝国大学工科大学教授に就任した。以後20年間、廣井は日本における築港技術、橋梁工学の権威であった。明治36年7月、青山も出席した東大土木工学科謝恩会の席上、自らの経験をもとに「海外で土木事業に携わり経験を積んでくるよう(出稼ぎをするよう)」卒業生に求めたという。
身内から100円(50ドル)の借金をして横浜を発った青山ではあったが、パナマへの道は平坦ではなかった。カナダで上陸、陸路をシアトルまで来た青山は恩師廣井が紹介状を書いてくれたコロンビア大学バア教授に手紙を出すが事はそう簡単ではなかった。フランスが計画を放棄した後のアメリカ政府の方針も未だ確定していなかったからである。結局翌明治37年春まで青山はシアトル近郊で昼は皿洗いや雑役のアルバイトをし、夜は英語の勉強をしてひたすらバア教授からの色よい返事を待った。そして明治37年3月ニューヨーク・グランドセントラル駅に到着した青山は、早速バア教授を訪問して恩師廣井教授からの英文紹介状を手渡し、改めてパナマ運河工事への参加を懇願した。だがアメリカ・パナマ両国政府が運河条約に調印した後ではあったが現地入りの機は未だ熟さず、やむを得ず彼はバア教授に紹介された鉄道会社のニューヨーク近郊における鉄道建設現場において、無給で2ヶ月間末端技術者として働かざるをえなかったのである。そしてついに5月27日、パナマ地峡運河委員会委員でもあるバア教授から、「末端測量員として採用されたから、6月1日ニューヨークから船で現地に向かうように」という連絡が入った。国防省(War Department)からの正式な採用通知には、青山をトリニダド川測量隊の測量補助員(Rodman)として3ヶ月間臨時雇用する。無試験で採用。バア教授の紹介。月給は75ドルであり、肌の色黄色。国籍日本、と記されていた。月給75ドルは同年輩のアメリカ人技師に比較すれば低いが、当時の日本円にすると190円前後になり、高等文官試験に合格した高等官の初任給が50円、大卒銀行員の初任給が35円の時代であり、25歳の青山は給与の大半を父や弟たちへの仕送りに充てた。
猛暑の中で2年余り、青山はテント生活に明け暮れ、野外測量班の班員として蚊よけの網を被りながら、運河ルート予定地の測量と地質調査を続ける中で昇進の機会を待った。そうこうする内に明治39年、セオドア・ルーズベルト大統領の発案で現地作業員はゴールド組とシルバー組に分けられた。ゴールド組は2年間勤続すると金メダルが与えられる白人高級技術者らを中心とする幹部グループである。過酷な環境における優秀な技術者確保のための褒章制度であり、シルバー組は現地人末端労働者らであり、その大半が黒人であった。日本人(黄色人種)でありながら金メダルを与えられた青山は、獲得した純金のやや小ぶりのメダルを包む布に「汗ト涙トヲ以テ獲タル」と、自ら筆で書き込みを入れた。青山がパナマ運河に携わっていた7年半の間に死亡した作業員は約4000人、少なくとも作業員の10人に一人は黄熱病、マラリア、チフス、などの病気や事故で命を落とした。そういう環境で働きながら彼は「死んではならぬ。パナマ運河で働く唯一人の日本人なのだ。死んではならぬ」と、自らを励ましたという。
明治39年8月、2年1ヶ月の死のジャングルの任務から開放され、青山はクリストバル港の港湾建設現場に配置換えになり、月給125ドルの測量技師補に昇進していた。努力家であり、土木技術者として極めて有能であった彼は上司、部下からの人望も厚く、東洋人としては異例の早さで昇進した。明治40年には測量技師に昇格、月給150ドル、明治43年には設計技師に昇格、月給も175ドルに昇給した。パナマ運河で最も難しい構造物ガツン閘門、ガツンダムの設計は明治39年初めから開始されたが、明治40年9月、青山は優秀さを見込まれ、大西洋建設部(Atlantic Division)のガツン閘門とダムの現場に配置換えになり、明治43年3月、ガツン閘門のウィング・ウォール、閘門中央壁先端のアプローチ・ウォールの主任設計技師となった。しかしながら、運河構造物の設計図書は軍の機密事項であり、青山の登用には軍関係者の反対もあったようである。運河が80パーセントほど完成した明治44年11月11日、青山は60日の有給休暇を取ってパナマを去り、その後辞表を提出(郵送?)した。辞表は明治45年1月9日に受理され、その後、彼は二度とパナマの地を踏むことはなかった。日露戦争は大方の予想を裏切って日本が勝利し、アメリカ人の日本人に向ける目も厳しくなっていった時代である。明治38年5月7日(日本海海戦の20日前)、サンフランシスコ市長が急先鋒となり各種労働組合が参加して日韓人排斥連盟設立のための市民大会が開かれ、黄色人種排斥の演説が万雷の拍手を浴びたことは、当サイト卓話室Tシリーズ13(6頁)でもお話した。
明治45年1月27日、青山は日本への帰路、移民としてシアトルに在住する弟衡一と再会した。1ヵ月後に帰国、恩師廣井教授の自宅を訪ねて帰国報告と就職の相談をした。2月29日、33歳の青山は無試験のまま内務省に技師として採用され、同省土木局東京出張所(現国土交通省関東地方整備局)に配属された。前述したようにその後大正4年、岩淵水門工事主任に任命された青山は、大正7年7月22日には荒川改修事務所主任となり、荒川改修及び放水路工事の全てを任された。測量から設計施工まで手掛け、泥まみれになることを厭わず、早朝から現場に出て工事を指揮監督した。脚にゲートルを巻き、作業衣姿で腰に手ぬぐいをぶらさげるという独特のスタイルであった。お茶やコーヒーを他人にいれて貰わず自分で沸かして飲み、時には自ら食事を料理したのもパナマでの7年余の生活に根ざしていたか。工事用機械や船舶の流失という大被害を齎した大正6年9月30日の台風(高潮に襲われた深川、品川の住宅地で500人が溺死した)や大正12年の関東大震災による被害をも克服して大正13年10月12日、加藤高明首相、高橋是清農相、若槻礼次郎内相、中村是公東京市長、その他政府関係者多数が列席して荒川放水路通水式が岩淵水門右岸堤で挙行され、これらの人々の前で「工事報告」を行ったのは、この歴史的大プロジェクトの全てを任されていた工事主任技師青山士であった。
それから約2年半後の昭和2年6月24日、内務省が威信をかけ15年の歳月と延べ1000万人余の作業員、巨費を投じて完成させた信濃川大河津分水路に悲劇的事態が発生した。自在堰8連のうち3連が、工事完成後わずか5年にして、激流に洗われ突然陥没したのである。東洋一を誇った大河津分水自在堰の放水量調節機能は完全に麻痺し、信濃川本流に流れ込む川水が枯渇して農民は水の奪い合いを始めた。内務省のメンツは丸潰れとなり、「雪辱戦」とも称されたこの補修工事に内務省はそのエース宮本武之輔を投入することになった。重大任務を託され、必死の覚悟で臨んだ宮本(35歳)は自らの上司として青山士を望み、昭和2年12月16日、青山は内務省土木局新潟出張所長(現国土交通省北陸地方整備局長)として単身赴任し、翌昭和3年1月、宮本工事主任が着任した。内務省技術陣最強のコンビによって、自在堰は撤去され、代わって可動堰を完成させることによって昭和6年6月20日、大河津分水路補修工事は完了した。陣頭に立って獅子奮迅の活躍をした宮本はその後内務省に勤務しながら東京大学工学部教授として河川工学を担当、昭和11年刊行の主著『治水工学』は斯界の決定版とされている。青山はこれらの功績を認められてか、内務省技術官僚のトップである第五代内務技監を2年務め、日本土木学界会長にも就任した。
 荒川放水路の竣工時もそうであったが、この大河津分水路補修工事の竣工に際しても現場には記念碑が建立され、その碑文は青山が起草した。どちらの碑にも青山は自らの名を記すようなことはせず、大河津の碑文には「人類ノ為メ国ノ為メ」と記され、合わせて同じ趣旨の言葉がエスペラント語で掘り込まれている。役所にいては、クリスチャンの言動を見せず、他者に信仰を押し付けることの無かった青山は、私生活に戻ると無教会主義の信仰生活を維持した。山登りやハイキングは晩年まで楽しんだが、若い頃、器械体操が好きで鉄棒の大車輪を得意とした青山は、学生時代から晩年に至るまで自宅自室の机の上に、内村鑑三、廣井勇両師の顔写真を置き、『聖書』と『内村鑑三全集』を終生、座右の書としていた。恩師内村鑑三は、帝国大学に入学して学歴主義に溺れ、「天狗」になっている学生を痛罵し、大学生青山士が低俗な立身出世主義におもねる学生のレベルをはるかに超えていることを見抜いていたという。東大卒ではない東大工学部教授廣井勇は学友・教友であった内村鑑三から「廣井君ありて明治大正の日本は清きエンジニアーを持ちました」と称えられた。廣井は学生に対し真の良師であったばかりでなく、廣井によって職を土木界に得た者は少なくなかった。失敗しては廣井に走り、失職して請う者あればこれを容れ、自ら奔走して職を求め与えた。札幌農学校卒業に際し、「人自ら信仰ありと言ひて行為なくば何の益あらんや」と決意し、工学の世界に入ったという。その廣井の薫陶を受け、内務省技術陣のエースとなった前記宮本武之輔は、学業成績優秀にしていわゆる「恩賜の銀時計」組であった。そして同じく廣井の薫陶を受けた青山も東大卒業に際しては「恩賜の銀時計」組の一人であった。だが青山はその名誉を親や兄弟にも伝えず、周囲の者に「銀時計」を見せることもなかった。「私利私欲のためではなく、広く後世の人類の為になるような仕事をしなければならない」という信念を貫いたのが土木技師青山士(あきら)の生涯であり、その青山が残した旧岩淵水門、通称「赤水門」が写真の標柱最上部に示されたような、水位8.6mのカスリーン台風(昭和22年9月16日)にも耐えて十全に機能したことは、後世に生きる我々に大きな勇気を与えることではないか。

参考文献
 『写真集 青山士/後世への遺産』
 「パナマ運河/荒川放水路/信濃川大河津分水路」
  青山士写真集編集委員会編 1994年山海堂刊
『評伝 技師・青山士の生涯』
  われ川と共に行き、川と共に死す
  高崎 哲郎著 1995年講談社刊


 
水門も 手持ち無沙汰の 秋が往く